10月号
映画をかんがえる | vol.31 | 井筒 和幸
1987年の初め、ボクはニューヨークにいた。次から次へと撮ってきた映画仕事が途切れてしまい、新しい企画を考える気もしなくて、景気に浮かれる東京からしばらく離れてみたい、そんな気分でいた頃だ。でも、まさかマンハッタンの摩天楼の下まで来るとは思わなかった。実は、広告代理店から依頼された製菓メーカーのプリンのCM撮影で、まだ開発途上の“ハイビジョンカメラ”を使って何重にも画面合成して仕上げる未知の仕事で、最終的にニューヨークのスタジオで合成撮影するという訳だった。ビデオ技術のことはビデオ屋さんに任せて、時間も製作費もあるのをいいことに、ボクは親友のカメラマンと夜の街に出た。当時は「アイ・ラブ・ニューヨーク」の観光キャンペーンのお蔭か、治安も悪くなく、街の人々も長閑だった。
「これ、デ・ニーロ主演のうわさのやつ。カンボジア大虐殺の『キリング・フィールド』(85年)の監督のや」とボクが言うと、親友も大きく頷いたので、お上りさんよろしく、ブロードウェイの映画館に入った。とんでもないスケール感の『ミッション』(87年)だった。18世紀、スペインの植民地の南米奥地が舞台で、キリスト教の宣教師と共に、デ・ニーロ扮する罪深き奴隷商人が改悛して、密林に住むインディオらに布教していく話だ。字幕がなくて細部は解らなかったが、何より、こんな過酷なロケ地で何か月かけて、どうやって撮ったんだと思わせる場面に圧倒された。いきなり、密林の川を十字架の木に括られた若い宣教師がインディオらに見守られながら流れてきて、その先の滝へ流れ落ちるまでワンカットで見せるので驚いてると、前の席の中年客が背中ごと振り向いて、「WHY?」と声をかけてきたので、また吃驚した。親友が「NO!」と答えると、回りの客も笑っていた。夢と欲望と虚栄のブロードウェイの真ん中で、人間の受難や慈愛を教えられるとは思わなかった。
CM撮影はモノを如何に良く見せるかだ。映画のリアリズムとは違う。宣伝担当者は「母親が子供に買ってあげる気になるように頼みます」となかなか難しい注文を出すので、茶の間で思わず目がいく画面にするからというのが精一杯だった。CMやPRの映像はモノやコトをどう印象付けるかだ。映画は人の心をどう見せるかだ。「映像屋と映画屋はそこが違うわ」と、ハドソン川の見えるカフェで親友と語り合ったものだ。
スタジオから近いニューヨーク大学の辺りを散策していたら、さすがに地元、『真夜中のカーボーイ』(69年)や『タクシードライバー』(76年)のオリジナルポスターを飾った映画館も見つけて心が弾んだ。まさか上映してないだろうと思ったら、スクリーニング中で感動した。切符売り場の人に訊くと「もう十年、やってるよ、お客が来る限りずっとやるよ」と笑った。映画ってこういうものだなと一人で納得した。グリニッジヴィレッジの名画館で、昔に観たトニー・リチャードソン監督の傑作、教護院に入れられた不良青年がマラソンに自分を賭ける『長距離ランナーの孤独』(64年)と、ジョディ・フォスターやロブ・ロウが出た新作の『ホテル・ニューハンプシャー」(86年)が二本立てでかかっていた。この新作は帰国して探してみようと思った。前年の夏に封切られたが、自作の評判が悪かったので外出する気も失せて見逃していたのだ。それは変人奇人揃いの大家族の波乱万丈の流浪ドラマだ。長女が「絶望こそ力よ」と弟に言う。この台詞が忘れられず、ボクを何度も励ましてくれた。
CM撮影は、和食店からカツ丼や親子丼やカレーライスを出前で運んでもらって徹夜で撮り上げ、ニューヨークの非組合員のクルー達と共に、夜明けにビールで乾杯して終った。スタッフの黒人青年はカレッジの映画科の学生で、「勉強になった。一番勉強になったのはディレクター(ボク)に、親子丼の名前の意味を教わったこと。平和の味です」と言うので、日本人クルーが感心していた。親子丼をしみじみと食べる黒人か。なかなかいい場面だなと思った。
PROFILE
井筒 和幸
1952年奈良県生まれ。奈良県奈良高等学校在学中から映画製作を開始。8mm映画『オレたちに明日はない』、卒業後に16mm映画『戦争を知らんガキ』を製作。1981年『ガキ帝国』で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降、『みゆき』『二代目はクリスチャン』『犬死にせしもの』『宇宙の法則』『突然炎のごとく』『岸和田少年愚連隊』『のど自慢』『ゲロッパ!』『パッチギ!』など、様々な社会派エンターテイメント作品を作り続けている。映画『無頼』セルDVD発売中。