12月号
連載エッセイ/喫茶店の書斎から ⑦ 井上慶太九段
出石アカル
書 ・ 六車明峰
井上慶太という人がおられる。将棋ファンならだれもが知る日本将棋連盟所属のプロ棋士である。芦屋市出身、加古川市在住。1964年生まれの52歳。
名伯楽としても名高く、慕って弟子入りする若者も多い。一門の中からすでに三人のプロ棋士が育っている。船江恒平五段、稲葉陽八段、菅井竜也七段。いずれも俊英。近いうちにこの中からビッグタイトルを手にする棋士が必ず出るとわたしは信じている。ア、慶太さんゴメンナサイ。師匠の慶太九段も現役だった。これからタイトル獲得の可能性も大いにあるのだ。わたしはまだまだ期待してますよ。ネ、慶太さん。
慶太さん居住の加古川市は、特に全国的に有名なものがあるわけではなくどちらかといえば地味な一地方都市である。加古川在住の詩人高橋夏男氏は、昔は宿場町だったこともあり多少の皮肉を込めて「通り過ぎるまち」などと言っておられた。しかし最近、将棋ファンの間では「棋士のまち」として全国的に知られるようになった。名刹鶴林寺が「竜王戦」や「王将戦」の舞台になり、「加古川青流戦」(2011年創設)という公式棋戦が行われるなど盛り上がっている。これもひとえに井上慶太一門の活躍によるものであろう。いや少し言葉が足りなかった。加古川には井上一門以外にも以前からプロ棋士が在住している。加古川最初のプロ棋士、神吉宏充七段、タイトル経験者で“捌きのアーチスト”の異名を持つ久保利明九段。さして大きくもない一地方都市にこれだけのプロ棋士が集結しているのがなんとも不思議である。
わたしが慶太さんの知遇を得てからもう十数年にもなるだろうか。ある人を介して、わたしが多くの子どもに将棋を指導していることを知り、ご自分が著された将棋本をたくさん提供して下さったのだった。その後、わたしが主宰する将棋会に何度か指導に来て下さったこともある。
このほど、その慶太さんから、「普及活動にお役立てください」と又々棋書をお贈り頂いた。直筆署名入りの『井上慶太の居飛車は棒銀で戦え』(NHK出版)である。これはNHKのEテレで2013年10月から2014年3月まで放送された「将棋フォーカス」の講座を元にまとめられたもの。あの放送はわたしもずっと見ていたが、実に面白く分かりやすいものだった。その最終回で、半年間アシスタントを務めた女優の岩崎ひろみさんがつい「(番組も楽しかったが)井上先生(そのもの)が楽しかったです」とポロリと本音を漏らしていたのがおかしかった。慶太さんはお堅いNHKテレビであるにもかかわらず関西弁全開である。それが明るく柔らか、たまに「俺は…」などと地のことばが出たりして好人物ぶりを発揮しておられた。勝負師にとって“好人物”というのは誉め言葉にはならないかもしれない。実は慶太さん、A級在位経験者であるにもかかわらず、タイトル戦登場はおろか挑戦者決定戦にも進んだことがなく、これは棋界七不思議のひとつといわれている。これも慶太さんが好人物ゆえではなかろうか。九段の名誉のために申しておきますが、A級というのは凄いんです。日本で、ということは世界で最も将棋が強い11人のうちの一人なのですから。プロ野球でいえば、阪神タイガースの藤浪投手、あるいは福留選手クラスですからねえ。それほどの慶太さんが未だにタイトルに縁がないのは、やはりこの人柄の良さが災いしているとしか思えない。いや決してタイトルホルダーが悪人だとは思っていませんよ。念のため。
因みに慶太さん、大の阪神ファン。いつだったか、わたしの将棋会に指導に来て頂いての帰り、並んで歩いていたら、スマホでチェックして試合経過を教えて下さったことがある。いかにも庶民的なのだ。
お贈り下さった『井上慶太の居飛車は棒銀で戦え』だが、それには毛筆での署名の他に識語が添えられている。二種類あって、一つは「動中静」。もう一つは「流儀」。きれいな整った字で、子どもでも読みやすい書体。そういえばわたし、大分前に慶太さんに書道の先生を紹介したことがあった。加古川に比較的近い明石在住の書家、六車明峰氏である。そう、この連載にカット絵ならぬ、高雅な香りの“カット書”を書いて下さっている人だ。縁は巡るんですねえ。
慶太さんとのことでもう一つ印象的なできごとがあった。
二〇一二年三月、西宮で子ども将棋教室の指導をご一緒したときのこと。わたしが子どもたちに「負けるのは悔しいことやけど、ちっとも恥ずかしいことではないからね」と話したのだった。それをそばで聞いておられた慶太さんが、後日「あの言葉はいいですねえ。わたしも子どもを指導する時に使わせてもらいます」と言って下さったのだ。
天下のプロ九段にそんなこと言ってもらって、わたしは大変恐縮しながらも少しばかり誇らしかった。
■出石アカル(いずし・あかる)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。詩集「コーヒーカップの耳」(編集工房ノア刊)にて、二〇〇二年度第三十一回ブルーメール賞文学部門受賞。