1月号
連載エッセイ/喫茶店の書斎から (32) 海尻巌 Ⅱ
今村 欣史
書 ・ 六車明峰
「行って来よう」と思った。海尻巌の生地、豊岡市(旧出石郡)但東町薬王寺へ。
但馬は走り慣れた道だ。
家内の高校時代の同窓生の一人が但東町に居て、今も交流がある。事情を話すと幸いにも「海尻さんなら知っている」と。今も実家には海尻の甥が家を守っておられるとのこと。
秋晴れの但馬路を病後初めての長距離運転。同行してくれた家内といいドライブになった。
一旦出石の町へ入り、出石蕎麦で腹ごしらえをしてから薬王寺を目指す。薬王寺は地元では「ヤコージ」と発音する。住民は百人に満たない。聞くところによると、生田神社の巨大なしめ縄を毎年作成しているのはここの住民だという。
清流出石川に沿って上流へと向かう。河原にはススキが銀色の大きな帯になって波打っていた。
海尻巌の甥、満氏とお会いしたのは、氏の勤め先「豊岡市立高橋地区コミュニティーセンター」。
そこで思いがけないものに接した。満州開拓団の資料を展示する部屋があったのだ。そうか、ここだったのか、と思った。
この際、満州開拓団について少し。
その悲惨な物語を書いたドキュメンタリー文学、『遥かなり墓標』(春木一夫著・神戸新報社・1969年刊)を読んだことがある。国策によって満州に移住した出石郡旧高橋村(現但東町)の農民たちが、敗戦直後の逃避行の中で絶望し、老若男女あわせて四百人余がホラン川の岸辺で自決、あるいは渦巻く濁流に身を投じたという事実に基づく物語だ。親は幼い子らの手足を縛ってともに果てたという悲劇。
但東町は山峡の地である。川沿いに集落が点在していて耕地面積が少ない。そんなわけで戦前は貧困にあえいでいた。それが先の満州開拓団の悲劇にもつながったのである。
海尻家も貧と無縁ではなかった。巌は海尻家の七人兄妹の長男。13歳の時に奉公に出る。上から順に家を出て行くのである。いわば口減らしだ。そして、下の方の者が家を継ぐことになる。田舎ではこういう例が多い。
海尻家では六番目の保が後を継いだ。今回お会いしたのは、そのご子息の満氏58歳である。円熟味を感じさせる年頃だ。背は巌のように高くはなく、ふくよかな丸顔の好人物だった。
氏は包み隠さず語る。「海尻家は、村で一番貧乏だったんだ」と。巌の父も早くに亡くなっているので事実に近いのだろう。たくさんの子どもを育てた母親のきぬは苦労したに違いない。アルバムを見せてもらったが、きぬは土の匂いのするいかにも農家の人。巌に似て大柄である。
その母親に対する巌の気持ちは半端ではなかったと。
「しょっちゅう薬王寺へ帰って見えました。長男なのに面倒を見られないという後ろめたさがあったんだと思います。うちの父親とは13歳も年齢が離れてましたから、巌さんが『三日泊まる』と言えば父も母も『はい』、『一週間泊まる』と言えば『はい』でした。とにかく薬王寺が好きな人でした」
その母親、きぬが亡くなったときのこと。
「宝塚から帰って見えて、葬式の前の夜、お母さんに添い寝されたんです。次の朝まで」
よほど情の深い人だったのだろう。
「そしてね、火葬場での骨拾いで、大腿骨を骨折した時の手術で埋められた鉄棒を持ち帰ったんです。文鎮にすると言ってね」
これまたスゴイ話だ。
『続 海尻巌詩集』に「この鉄の棒は」という詩がある。その後半。
ひと夜あけて
母の手を握っているうちに
手はだんだん冷たくなってきた
つらかったであろう
それにもまして
なさけなかったであろう
ひとは極楽にいきなったというし
わたしは天寿を全うしましたと挨拶はしたが
焼場から持ってかえった
三十センチあまりの鉄の棒がある
この棒は母の足の骨の髄に
打ち込まれていた鉄の棒である
叩けばこつこつ
母のさびしい音がする
但馬言葉も使われていて哀切感が深い。
満氏にわたしは尋ねてみた。
「巌さんが詩を書いておられたこと、この地の人はご存知だったでしょうか?」
「いや、だれも知らなかったと思います。わたしも“植木のおじさん”のイメージしかなかったですから。うちの庭の植木を頼みもしないのに剪定してました」
巌は、サツキ栽培においても名人の域に達していたという。
もう一度話を宮崎翁の問わず語りに戻す。
「40年ほど昔に、海尻さんの案内で但馬の奥に富田砕花先生、竹中郁さん、山本武雄さんをお連れしたことがありました」
これも宮崎翁の“触媒仕事”なのだろう。
富田砕花は言わずと知れた“兵庫県文化の父”と呼ばれた人。竹中郁は画家小磯良平の親友でもあった著名な詩人。山本武雄は戦前からの伝統ある短歌誌「六甲」を主宰する歌人。いずれも当時の兵庫県を代表する文人である。
「海尻さんの妹さんの嫁ぎ先、京都府丹後の加悦というところへ行ったんです。海尻さんの生家、出石郡(現豊岡市)但東町薬王寺からは山一つの所なんですけどね。その時のこと、ぼく、記事にしましたよ」
わたしはその新聞記事を見なくっちゃ、と西宮図書館へ。西宮図書館は古い神戸新聞を現物で収蔵しているので便利なのだ。
昭和54年4月18日付けの朝刊にその記事はあった。「丹後路を行く」と題したそのリード文。
《兵庫県の、というより日本詩壇の大御所二人の“道中”だった。三月のある日。行く手は丹後路、帰路は但馬路を経てという日帰りの小旅行。富田砕花(88)竹中郁(75)のお二人の交友は長いが、打ちそろっての旅は、最初とのこと。随行した歌人山本武雄が「文壇史に残る“事件”だ」、詩人海尻巌氏は「思いがけぬプランが実現して夢みたい」と相づちを打った。》
砕花師と竹中郁が並ぶ写真が載ったその記事は四段の充実したものだった。その最後。
《砕師は「ホウ、ホウ…」まるで小児のように声を発しながら、のどかで清潔な自然の中で目を細め、歩きまわり、感嘆詞の連発。郁氏はササぶきの農家の生活構図のスケッチに専念。やがて“本物”のソバと山菜料理の味にたんのうして…。砕師に旅の即興歌一首が生まれた。“大江山雲原越えに遠く来て新そばぎりの香にむせびけり”》
この時のこと、海尻はよほど印象深かったようで、砕花師が亡くなられたあとに出た『追慕富田砕花先生』(神戸新聞社・1984年)に「蕎麦旅行のこと」と題して書いている。その一部。
《(富田砕花、竹中郁の)両先生はいささかの疲れもみせずいかにも楽しげだった。ようやく与謝野峠を越えて目的地の加悦町奥滝の私の妹の家に着いた。妹の住む部落は過疎も過疎、山の中の一軒家であった。この奥に廃村があると聞き、わざわざ足を伸ばされ朽ちかけた家の姿を感慨深げにみておられた。
妹宅に落ち着かれ早速蕎麦が出る。そのほかわさびの芽などが出された。両先生は無類の蕎麦好きであり、殊に砕花先生は(略)何杯かおかわりされる健啖ぶりにびっくりした。竹中先生は汁もかけないでさもいとおしいもののように一筋ずつ口に入れられ、これ又何杯かおかわりされた。今にして思えば二度とできぬ懐かしい思い出である。食事が終わっておそるおそる差し出した色紙に…砕花先生はちょっと目をつむり、やがてさらさらと歌をお書きになった。》
この蕎麦だが、満さんの話によると、家庭で作ったもので、太くて短く、下手に箸で持つとブツブツと切れてしまうのだという。そして、本当にだし汁につけなくてもおいしく食べられるのだと。今では作る家もなくなり、食べる機会がなくなったとおっしゃる。
この時のこと、もちろん海尻は詩に残している。
郁先生は美食家だった
フランス料理 ロシア料理 中華料理 すしひらめの刺身 めん類
とりわけそばはお好きだった
そばの本場の
丹後の山奥にお誘いしたことがあった
山菜の手料理には一切手をつけられず
ゆでたてのそばを
さもいとしいもののように
一本一本だしもつけられず
何杯もおかわりされた
(「そば」『続 海尻巌詩集』)
この詩で思うのは、謙譲語を多用していることである。普通、詩ではこのような言葉遣いは避けるものだろう。切れ味が悪くなってしまう。敢えてそのような言葉遣いをしているところに、海尻の竹中への尊敬ぶりがわかるというもの。わたしも足立巻一先生のことを書くときには、多少文章の歯切れは悪くなっても“先生”という言葉を入れずにはおれない。
つづく
■六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会計。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
■今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)ほか。