4月号
住人の環境に対する意識の高さが、夙川の街の礎となった|阪急夙川の昔と今
阪神間きっての高級住宅街として発展してきた夙川の歴史を、
夙川自治会長の柴田隆さんにご自身のエピソードも交えてお話しいただいた。
大遊園地開設から始まった夙川地区の歴史
夙川地区の始まりは、明治40年(1907)に大阪の香野蔵治と櫨山慶次郎が二人の頭文字をとって、「香櫨園遊園地」を開業したところにあります。今の2倍はあったといわれる片鉾池を中心にした、今でいうテーマパークだったようです。当初は物珍しくてとても繁盛したのですが、時代を先取りし過ぎたのか、さらに俗化が進んだからか、リピーターが増えずお客も減ってきたようです。追い打ちをかけるように、砂糖商だった経営者が相場に失敗し、5年間で廃園になってしまいます。
後の小林一三の偉業にも関わった?遊園地の運命
もしも香櫨園遊園地が破綻しなければ…、「小林一三が阪急電車を開通させ、宝塚歌劇を創設するようなことは起きなかった」という話があるそうです。その理由は、香櫨園を経営していた砂糖商は阪鶴鉄道の株式を大量にもっていましたが、破綻を受けて大株主であった三井物産が三井銀行に担保整理を依頼しました。その時、三井銀行社員だった小林一三を阪鶴鉄道の監査役として送り込んだそうです。これが一三を鉄道、ひいては歌劇への道へと導く発端になったとか。事実に基づき、かなり信憑性はあるお話ですね。
夙川地区は住宅街として形成される
香櫨園遊園地の跡地は二転三転の後、大神中央土地が入手し開発を始めます。大正9年(1920)開設された阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)夙川駅が開発に拍車をかけます。実は商売をしていた私の祖父は大阪船場での成功者の一人だったのですが、昭和8年(1933)ごろ、大神中央土地がもつ宅地を取得しました。それが最後の一区画だったと聞いていますので、人気の住宅地だったのでしょうね。
戦前の船場、島之内の繊維商は、棟を並べた建屋で商住一体の生活を営んでいました。その中で、商売に成功した富商が、夙川、芦屋、御影に別荘を構えることになりました。我が家もそのひとつにすぎません。
夙川自治会の前身は大正12年まで遡る
昭和28年(1953)に発足した「夙川自治会」の前身は、大正12年(1923)まで遡ります。大社村大字森具から分離した地区は「香櫨園区」と命名され、その際に地区の人たちが行政に頼るだけでなく私財を投げうって、電柱や溝、消防のための櫓、消防車を整備したようです。本当の自治組織だったのでしょう。一歩進んだ文化生活や住みよい環境づくりのために、「香櫨園会」という自治団体を結成しました。早くからこの地に移り住んだ地域の有力者たちには会社の経営者が多く、住環境に対して高い意識をもっていたのだと思います。
洋館が立ち並び、外国人が多く住む
さらに、殿山町に完成したパインクレストホテルをはじめ、大正末期から昭和にかけてはゼネラルモータースやナショナルシティー銀行などの米国企業が雲井町や殿山町に、ウィリアム・メレル・ヴォーリズをはじめ著名な設計家の手による洋館建ての社宅を設けたため、多くの外国人が住むようになりました。その中には、領事館職員や宣教師なども含まれていました。昭和4年(1929)には会員約400人のうち約30人が外国人だったということです。現在では、きちんと整備して住居としておられるのは2~3軒だけではないでしょうか。
地名としての「香櫨園」が消える
その後、昭和7年(1932)に大社村から独立して夙川地区と命名され、香櫨園会も「夙川区会」と改名されました。この時点で地名としての「香櫨園」は無くなり、駅名、小学校名、浜の一般的な呼び名などで残るのみとなります。この年、夙川の自然環境を守るための都市計画事業として河川改修と両岸一帯を利用した公園づくり工事に着工し、昭和12年(1937)に完成しました。当時の環境保全意識の高さが今の優れた住環境につながっているのでしょうね。また、夙川のシンボルになっているカトリック夙川教会の聖堂がパリのサントシャペル聖堂を模して造られ、翌年にはカリヨンが完成しています。
戦火の被害を免れた夙川
昭和20年6月からはじまって、8月に西宮は大空襲に遭います。幸い夙川一帯は一部を除いて被害を免れ、終戦直後から駐留軍がやって来てパインクレストホテルをはじめ、50~60軒の洋館が接収されました。穿った見方をすれば、米軍は先を見越してこの一帯に焼夷弾を落とさなかったのかも知れませんね。
夙川公園は戦災と水害で荒れていましたが、昭和24年(1949)、約千本の桜の若木が植えられ、その後、平成2年(1990)、日本さくらの会から「さくら名所百選」にも選ばれました。
子どもたちの心を癒した駅前クリスマスツリー
戦後、米国から日本に来た最初の民間人が、商船会社「アメリカン・プレジデントラインズ」の神戸支店長として赴任したウォルター・ジョン・オハラさんです。奥さんのベティさんと共に敬虔なクリスチャンだったご夫妻は、日本人、中でも子どもたちの惨状を見かねて、昭和23年12月、「少しでも心を癒すことができれば」と羽衣橋の欄干にクリスマスツリーを立て、モールや金銀の玉などで飾り付けました。お二人は民間人としてわだかまりを捨てて、戦勝国と敗戦国の平和と親善の架け橋になりたかったのかも知れません。飾られたチョコレートやクッキーは、数時間でとられてしまったそうです。
最初にクリスマスツリーが飾られた翌年、ご夫妻は子どもさんを事故で亡くされました。埋葬された満池谷の墓地から見えるようにという思いもあったようで、以降毎年、クリスマスツリーが飾られるようになりました。 現在は夙川自治会とグリーンタウン商店街振興組合、西宮夙川ロータリークラブの共催で管理し、毎年11月最終週の土曜日に点灯式を行い、12月25日まで飾っています。今年で70年目を迎え、大きくはできないのですがもう少し明るくできないかと考えているところです。
戦後、大きく変わった街の様子
昭和22年(1947)、財産税が導入され夙川でも持ち家を手放された方が多く、それを買った大企業が社宅として使うようになりました。次第に社宅が使われなくなり手放すケースが増え、街並みは変わっていきます。私の祖父の場合は、戦後、大阪での商売をやめていましたからその土地を処分して財産税を払い、夙川の家を維持したようです。
昭和25年(1950)、夙川駅前を不法占拠していた闇市を立ち退かせるため、夙川駅南西側に約40店舗が入る「夙川市場」ができました。それまで日常の買い物は阪神西宮の公設市場まで行っていましたので、大変便利になったようですね。
一方、大神中央土地は昭和30年(1955)に解散します。その際に、「未来永劫、夙川エリアのお世話をする」ことを条件に、同社が事業の進展と土地開発の安泰を祈願するために設けた雲井稲荷明神を新しく建替え、さらに、境内に児童公園を設け、現在の自治会館の土地と建物をともに夙川自治会が無償で譲り受けます。
昭和35年(1960)から西宮市は、教育拠点として市内に11の公民館を建設する計画を立てました。当時の松下電機産業㈱(現在のパナソニック㈱)の創業者・松下幸之助氏は「お世話になった西宮市への恩返し」として片鉾池の上に松下記念ホールを造り、昭和38年(1963)、西宮市に寄贈します。翌年4月、夙川公民館としてオープンしました。後年、耐震化を進めるにあたって、ホールを取り壊していくつかの部屋に分割する案が浮上したこともありましたが、とても風情のある良い建物ですので、幸之助氏の思いを大切にして取り壊すことなく耐震工事を進めました。
民間・西宮市の事業が同時進行した駅前再開発
駅前再開発は紆余曲折を経て、民間の組合施行による再開発事業と市の土地区画整備事業が同時に進行する全国でも初めての例として昭和52年(1977)に夙川グリーンタウンが竣工し、駅前の商店や夙川市場の店舗のほとんどが入居しました。駅前ロータリーも完成しました。それ以来40年が過ぎ、現在、駅前は限界の状況にきています。夙川は阪神・淡路大震災で大きな被害を受け夙川駅も倒壊し、仮に造られたような状態で現在に至っています。
山手幹線は昭和初期、いわゆる弾丸道路として計画が持ち上がり、時を経て昭和21年(1946)に決定された西宮市の都市計画の一環として再認識されました。当初の計画ルートとはかなり変わってきたようですが、平成17年に始まった大谷工区の工事が完了した平成20年(2008)、芦屋市までつながり車移動の利便性は非常に良くなりました。
愛着をもってずっと住みたいと思える街に
夙川は非常に教育熱心な住人が多く、夙川小学校の児童の7割近くが私立へ進学するということです。しかし、その目的を達成したらその後もずっと住みたいと思ってもらえるのか?といえばそうではないのが現状です。暮らしやすさに魅力を感じて愛着をもってもらえる街にしなくてはいけません。まず、街の顔・阪急夙川駅周辺が再整備されない限り、どれほど素晴らしい住宅街が存在しても、イメージは高まりません。駅に降り立った途端に「なんかショボいな…」と言われるのは残念です(笑)。そこで5年ほど前から勉強会を立ち上げ、今後について議論を始めています。難しい問題が山積してはいますが、阪急夙川駅を橋上駅とし、グリーンタウンをつなぐツインタワーを形成するという将来の理想像を掲げて、西宮市や関係機関と共に考えていきたいと思います。