11月号
有馬温泉歴史人物帖 ~其の四拾四~ 林 羅山(はやし らざん) 1583~1657
次の総長の選定で何だかモヤっているわが国の最高学府ですが、そのルーツのひとつが江戸幕府直轄の教育機関、昌平坂学問所でして、それの起源は寛永年間に林羅山がおっぱじめた私塾だそうでございます
羅山くんは京都生まれで、幼少期はまさに神童。建仁寺で学んだけど、仏教がお嫌いだったようで頭を丸めることはノーサンキュー。文学や儒学を独学でもりもり勉強していくのですが、なんと書物はひと目で5行も読んでその内容をまるまる理解したそうですから、下手なAIよりもずっと賢い!
そのうち朱子学にどハマり。すると縁あって前々回の藤原惺窩と運命の出会いが。羅山くんは学問的にも人間的にも惺窩さんを崇敬し、惺窩さんは羅山くんの才能に舌を巻き、師弟の絆は強固に。家康にその才能を認められ仕官を切望されていたけど行きたくなかった惺窩さんは、すぐさま羅山くんを推挙。すると気に入られ、なんと23歳にして60過ぎのタヌキじじいのブレーンとなったのでした。
で、大阪の陣の発端となった方広寺の梵鐘、いわゆる「国家安康」のナンクセにも加担し、有馬大好き秀吉が築いた豊臣家の滅亡の片棒を担いじゃう。ですからことのほか重用され、家綱まで4代の将軍に仕えて幕府の体制構築に貢献するとともに、朱子学の発展と官学化に成功したのでございました。
さて、羅山くんは漢詩の名人でもございまして、有馬・下呂・草津を天下三名泉として詠んでございます。ちなみに下呂の人々はことさら羅山くんに感謝してその銅像を建て、お祭の主役にも奉っていますが、「ゲロゲ~ロ」の青空球児師匠を差し置いての厚遇ぶりですね。
師の惺窩さんに遅れること41年、羅山くんは1621年に有馬へとやってまいります。たぶん前から興味を持っていたのでしょうけれど、有馬はその前年に幕府直轄領となっているのでこのタイミングになったのかも。お泊まりは御所坊でございます。湯治がてら惺窩さん同様漢詩を詠んでいますが、温泉だけでなく鼓ヶ滝や地獄谷などもそのネタにしてエンジョイ。また『有馬温湯記』も著していますが、ここには平安末期に山津波に呑まれた有馬を再興した仁西についてもしっかり記述されています。どうやら羅山くんは地元の人たちの口承をまとめてこれを書いたようで、そのおかげでそれまであまり知られていなかった仁西の偉業が有馬の「歴史」として世に出るのでございますよ。ですからもし羅山くんがいなければ、埋もれた泉源を掘り起こした仁西の存在は埋もれたままだったかもしれませんね。













