2017年
4月号
岩田さんが館長を務めた風見鶏の館。池を埋め立てて建設された

神戸・北野 もうひとつの開港物語

カテゴリ:文化人, 神戸

開港150周年を迎えた神戸。かつて神戸の人たちは、どのような思いで揺れ動く開港のドラマを眼にしたのだろう。そして、北野の異人館街はなぜ形成されたのだろう。かつて神戸女子大学で教鞭を執り、風見鶏の館の館長を務め、北野や神戸の歴史に詳しい岩田隆義さんにたずねてみた。

普通の人の目線で歴史を見つめる

 幕末から明治初期にかけての開港の歴史は、坂本龍馬や勝海舟それに伊藤博文のような活躍した英雄談が中心で、一般の庶民の目線ではあまり語られていません。特に北野のような山裾の寒村の人たちは、江戸や大坂の町の人たちに比べて純朴に生きていましたから、開港の驚きも衝撃も大きかったはずです。江戸・大阪の庶民たちはいわゆる町人で、町の中にいましたので、かわら版だとかの情報源がありましたが、当時の神戸や北野ではそういったメディアはありません。そういった状況の中で、神戸の人々がドラスティックな一連の劇的な変化をどう受け止め、どう生き抜いたのかを考えることが必要なように思うのです。彼らの考え方や生き方こそが神戸の発展の原点となり、神戸の方向性を決定したのではないかと思うのです。
 神戸の人たちが、外国人がやって来たときにどのように受け止め、どう考えて行動したのかは日本人の記録として残されていませんが、当時神戸に来た外国人の記録を手がかりにすることはできます。幸いなことに外国の新聞の記事や文献に、神戸の人々がどのように反応したかが書かれているのです。

恐れより好奇心が勝った?

 大きく日本が変わるのは、ペリーが来航した1853年からですが、黒船が来たという情報はやがて神戸へも伝わってきます。元禄時代にはすでに、早馬と早駕籠で江戸の情報はこのあたりへも4日ほどで届いたといいますから、飛脚や船乗りたちによって神戸にもすぐに情報がやって来たと思われます。しかし、それは遠いところの話で「江戸の方でそんなことがあったのか」ということぐらいにしか思っていなかったでしょうね。
 ところがペリーが1854年6月に2回目の訪問を終え日本を去ったその年の1854年11月8日に、兵庫にロシアのプチャーチンが来るのです。プチャーチンは非常に心が広く開放的な人物だったようで、兵庫の人たちが小舟で軍艦に近づいたら、上がれと誘ったのです。兵庫の人たちは上がって見物までしているんですね。怖くなかったのでしょうか、驚きますね(笑)。ところが、兵庫の奉行所は軍艦に近寄るなと禁止し、人々の関心はそれでしぼんでしまいました。
 その後1862年ごろから兵庫にイギリスやフランスの外国船がたびたび来港するようになり、兵庫だけでなく神戸の村々も騒然となってきました。
 1865年にイギリスからハリー・パークスが大使として日本にやって来ます。当時のイギリスは七つの海を制覇した世界一の大国です。パークスは条約で決まっていたにもかかわらずまだ実現していなかった兵庫の開港を要求し、兵庫津にフランス、オランダ、アメリカの4ヶ国の軍艦8隻を集めて待機させ、しかも3週間も上陸しているのです。
 パークスは3週間の間新しく港になる候補地を選ぶための調査をし、士官たちが徒歩で遠出をして調査したということが記録に残っています。その時に彼らは神戸や北野・山手の人たちに出会ったのです。それについて詳細な記録はありませんが、彼らは3週間にわたり海深や神戸村・二ッ茶屋村・走水村はもちろん、山手の花隈・北野村もくまなく精査したと思われます。ある日突然、外国人たちがやって来たのですから、村人たちの驚きと衝撃は測り知れないほど大きかったことが分かります。また、パークスの記録には「村人たちはきわめて友好的だった」と記されています。つまり、北野の人たちも怖がってばかりではなく、『喜んで迎えた』のです。これが最初に外国人と出会ったときの神戸の人々の姿です。
 パークスは権力を持っていた上にきわめて気が短く、恫喝外交をおこなったため恐れられていた人物ですが、そんな彼が非常に喜んで、そのお返しとして村人が自由に自艦の見学ができるように許可をしたのです。ところが、当時このあたりを管轄していた大坂奉行所がお触れを出して乗艦を禁止しました。しかし、パークスがこれを引き下げるように強く申し入れたために、村人たちは家族連れで訪れることができるようになり、最後の数日間は艦上がごった返す有様だったとパークスの記録に残っています。パークスは「旗艦の大きさや装備を実際に自分の目で確かめて、村人たちは好奇心を大いに満足させ感嘆した」とも記しています。
 神戸の人々が怖がってばかりでなく新しい時代の到来を予感し『喜んで迎えた』という様子は、タイムズ紙やその他の文献に残っています。それが当時の神戸の人々の姿だったのです。

雑居地指定で北野に衝撃!

 1867年5月に幕府は「兵庫大坂外国人居留地規定書」を諸外国と結び、その時に外国人居留地の場所が神戸村と生田川の間に決まりました。開港するのは当時栄えていた兵庫だというのが当時の人々の考えだったと思われますが、何もない神戸に港ができるなんて、誰も思っていなかったのですよ。北野の人たちも飛び上がって驚いたことでしょう。
 それから間もなく、1868年1月1日に神戸が開港します。しかし、ちゃんと居留地も港もできていない。これでは約束が違うとパークスたちは抗議します。明治新政府が成立していましたので、早速英蘭仏の3カ国は1868年3月京都に談判に行きます。発足後間もない明治政府は西洋の大国と渡り合う最初の外交として、威信をかけて対応しました。そして、日本人と西洋人が共に住む『雑居地』というシステムを採用することで柔軟に対応しました。これはある意味でリスクのある冒険ですが、英断だと思いますね。
 北野の人たちは神戸開港でビックリしたと思ったら、またビックリです。村の下の方の話だと思ったら、今度は外国人が生田川と宇治川の間ならどこに住んでも良いということになり、隣近所にあの外国人が住むことになったのですから。喜んだと同時に恐れもしたことでしょう。雑居地ができたことは、その後の神戸の性格を大きく決めることになりました。
 雑居地の中でも元町(神戸、二ツ茶屋、走水村)は早くから都市化して開けていきましたが、山手や北野、花隈あたりは比較的のどかでした。ぼちぼち発展していった感じです。
 一方、当時は電話や電報がなく、通信が発達していませんでした。ですからいつ自分の船が来るか知るために、船の出入りが見える場所が良かったのです。海が見えるところでないと商売が上手くいかなかったのですね。ですから高台で海に近い山手や北野は、景色が良いからという点も魅力的だったのかもしれませんが、貿易上の利便性も考えて外国人が住居を求めたのです。雑居地の山麓は、東に行くほど傾斜が急なのです。西側の山手はなだらかなのでそこから開けていき、だんだんと東の北野に移っていったのです。
 最初に北野に住んだ外国人はギリンガムというイギリス人でした。実は、元町にあるフットテクノの社長、藤田稔さんのご先祖が、幕末の北野村最後の庄屋、藤田清左衛門さんなんですよ。雑居地への居留は相対契約、つまり日本人・外国人双方の納得が必要で、日本人が拒否したら不許可だったのですが、清左衛門さんは新しいもの好きだったと伝えられ、外国人が住むことに村人の一部は反対しましたが、「日本は変わっていく。これからは新しいものを取り入れなければいけない」とOKされたという話が残っています。
 ギリンガムが住んだ場所は北野村の南の端、今の華僑総会の場所です。そこに今も藤田家が築いたという当時の石垣が残っています。明治の初め、神戸に進取の気風をもった先人がいたことがうれしいですね。
 実は、このようなことは、北野の庄屋だった西脇家に残る明治9年(1876)の地籍図やその他の文書がなかったら分からないことでした。この地籍図のおかげで、当時の地形や道などいろいろなことが分かってきました。

「たくましさ」こそ神戸の礎

 北野には外国人が多く屋敷を構えましたが、その中でも最も広大だったのがハンター邸です。現在のユダヤ教会あたりから浄福寺くらいまでがその敷地だったといいます。その当時ハンターさんはすでに神戸一の富豪でした。浄福寺の東側の道が広くなっているのは、ハンターさんが自分の馬車が通れるように道を広げたからなんです。浄福寺ではもともと西側にあった正門を、道路が拡幅したのを機会に東側に移したそうです。
 やがて明治40年代になると北野は外国人の住居で飽和状態になり、安全で海の見える洋館建設に適した土地がなくなってきました。風見鶏の館は明治42年(1909)に、ため池の跡に建てられたのですが、もうそこにしか土地がなかったからだと考えられています。また、明治末年それほどに混み合うほど神戸が栄えていた証左なのかもしれません。
 明治4年(1871)から人々に移動や職業選択の自由が与えられたこともあり、寒村だった神戸に発展とともに全国から人が集まり、やがてここに住み着きました。その人たちも一緒になって新しいものを積極的に取り入れ、神戸の発展の基礎を担ったのです。
 神戸の人たちは「雑居地」の中で着飾らないナマの西洋人とご近所付き合いをして、自然な形で交流が行われました。そんな環境の中で神戸の人たちは、西洋の新しいものをどんどん取り入れ取捨選択をしながら、たくましく成長してきたのです。新しい文化を広く受け入れる「寛容性」と「積極性」は、間違いなく開港以来150年の間に、西洋人に学びながら神戸の人たちが啓培してきたレガシーであるといえます。そして、神戸の発展は何よりも神戸の人々の『たくましさ』があったから成し遂げられたのではないでしょうか。

北野天満神社から望む神戸の街並み

イラストレイテッド・ロンドンニューズに掲載された神戸開港を伝える銅版画。左下の白い部分が外国人居留地

神戸村から北野町へ。外国人への土地貸与契約書。明治3年(1870)

開港当時の神戸の人々の様子が記されている外国人の日記『メモリーズ』。
居留地の造成に赤いちりめんを着て土を運んだと記されている

明治元年頃の神戸地図。丸で囲んだ北野村では60棟230人が暮らした

北野村から神戸の街を望む。上に見えるのが、建設が進む居留地。右に見えるのが生田の森(現在の生田神社)。明治4年(1871)

岩田さんが館長を務めた風見鶏の館。池を埋め立てて建設された

西脇家に残る明治9年(1876)の地籍図

E・H・ハンター(1843-1917)

ハンターが暮らした邸宅「旧ハンター住宅」。現在は王子公園に移築されている

ハンターが晩年を過ごした日本家屋は、現在でも北野町に残る

1910年頃、北野町に住む外国人の挙式を撮影した一枚

後列の白い洋服の女性は、明治末年に宣教師として来神し、神戸女学院で英語を教えた。この方の親族から譲り受けた一枚

岩田 隆義 さん

元神戸女子大学文学部 非常勤講師 岩田 隆義 さん

岩田 隆義(いわた たかよし)

1964年、神戸大学教育学部卒業。神戸市立小学校校長や風見鶏の館館長を歴任し、2015年まで神戸女子大学文学部非常勤講師。神戸外国人居留地研究会理事、全国居留地研究会議事務局長、北野町・山本通伝統的建造物群保存会顧問。北野町・山本通の文化と歴史を神戸市とともに保全・保護する活動に携わっている

〈2017年4月号〉
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