4月号
連載 神戸秘話 ④ 牧師の息子は稀代のギャングスター
衛藤衛(えとうまもる)とモンタナ・ジョー
文・瀬戸本 淳 (建築家)
関西学院といえばヴォーリズが手がけたスパニッシュミッションスタイルの西宮・上ヶ原キャンパスを連想するが、かつては神戸の原田の森、いまの王子公園にあり、神戸文学館の建物はその名残だ。ここで教鞭を執っていた一人の教師が、やがてアメリカで激動の人生を送った。
彼の名は衛藤衛。明治16年(1833)、大分県竹田で平家の流れを汲む武士の家系に誕生。小学校教員を経て日露戦争へ従軍、帰還後に神戸で洗礼を受け、明治42年(1909)から2年ほどは神戸一中(現在の神戸高校)に勤務していたが、「7年務めれば外国に留学できる」と誘われ関西学院へ移籍する(諸説あり)。もともと弓の心得があり、サッカーも教えたそうだ。また、「布引躬行舎」という修養団に属し、玄米を常食し、日曜日は聖書講義を聞くなど精神主義的な面もあったと伝えられている。
大正6年(1917)頃、衛は渡米する。大学設立を目指した関西学院が派遣したとも、日本政府より日系アメリカ人の実態調査を命じられたとも言われているが、カリフォルニアで日系人の荒んだ状況に衝撃を受けアメリカにとどまることを決意し、日本より妻と娘を呼び寄せ、教会を建て日系人の救済に尽力。太平洋戦争の時代は強制収容所に入るも、戦後はハリウッドの祈りの家の主任牧師を勤めるなどして、平成4年(1992)に109歳で大往生を遂げるまでアメリカで祈りを捧げ続けた。
実は衛には大正8(191
9)に誕生した健という息子がいた。健は利発で几帳面な一方、短気なところもあり、10歳の頃には白人相手にしばしば喧嘩をしていた。というのも当時、〝よそ者〟の日系人は「ジャップ」と蔑まされ差別の中にあり、白人から迫害を受けていた。しかし、健は自らをアメリカで生まれたアメリカ人と疑わず、差別が許せなかったのだ。
14歳のある日、父との齟齬が爆発し健は家を出てしまう。健はジョーと名乗り、農場の季節労働者“ブランケットボーイ”として各地を転々としながらイカサマ博打の腕を磨く。第二次世界大戦が勃発すると米軍の日系二世部隊に従軍、帰還後はニューヨークへ渡り、イカサマを見破られない完璧なカード捌きがイタリア系マフィアに認められのし上がる。
やがて先見的な舵取りで賭場を仕切り、バンディーノ・ファミリーとの熾烈な抗争をアル・カポネなき後のシカゴの大ボス、アイウッパの協力を得て制し、60年代にはシカゴ北地区全体を縄張りとするほどに。ラスベガスでもナイトクラブを経営するなど、日系人のドン〝モンタナ・ジョー〟の名は轟き、その人生に迫る映画も制作された。
聖職者の息子がギャングとは数奇な話だが、己の生き方を貫くという「血」は争えなかったようだ。衛は神の恩寵を確信していたからこそ、日系人の厳しい現実や、去っていった息子のことを思うと祈らないではいられなかったのだろう。生き馬の目を抜く裏社会でジョーが奇跡的に命を奪われなかったのは、もしかしたら父の祈りの恩寵なのかもしれない。
奮闘した2つの輝く星に、神戸の地より祈りを捧げたい。
※敬称略
※兵庫県立神戸高等学校鵬友会発行の『鵬友』、村上早人著『モンタナ・ジョー マフィアのドンになった日本人』(小学館)などを参考にしました。
写真/村上早人
『モンタナ・ジョー マフィアのドンになった日本人』小学館、2004年
瀬戸本 淳(せともと じゅん)
株式会社瀬戸本淳建築研究室 代表取締役
1947年神戸生まれ。一級建築士・APEC アーキテクト。神戸大学工学部建築学科卒業後、1977年瀬戸本淳建築研究室を開設。以来住まいを中心に、世良美術館・月光園鴻朧館など、様々な建築を手がけている。神戸市建築文化賞、兵庫県さわやか街づくり賞、神戸市文化活動功労賞、兵庫県まちづくり功労表彰、姫路市都市景観賞、西宮市都市景観賞などを受賞