3月号
神戸から行く長崎・キリシタンの里を訪ねて(上)
信仰と絶景の島々・五島列島
長崎・五島とキリシタン
1549年にザビエルが渡来し、長崎周辺では多くの者がキリシタンとなるが、江戸時代になると禁教令が敷かれ、表向きは棄教を装いながら信仰を守り通してきた。これを潜伏キリシタンという。
鎖国からあけた1865年、フランス人向けに建設された長崎の大浦天主堂を潜伏キリシタンたちが訪ね、キリスト教史に残る「奇跡」となった。これを機にキリスト教信仰を表明する者が多く現れたが、明治新政府は禁教令を解かず彼らを迫害。その厳しさは江戸時代以上ともいわれ、〝崩れ〟とよばれる過酷な弾圧で多くの命が奪われた。
しかし、欧米各国から猛烈な批判を受け、政府は明治6年(1873)にようやく信仰の自由を黙認。すると冬を過ごした野の草に春が訪れるように、キリシタンたちはそれぞれの集落に次々と教会堂を建て、信仰と地域社会のよりどころとした。これらの教会堂の一部と信仰の文化は現在、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界遺産登録を目指している。
五島列島は長崎市の西部約100キロに浮かぶ自然豊かな島々で、かつては大陸へ向かう遣唐使が日本で最後に立ち寄った国境の地でもある。
ここでは早くからキリスト教が浸透、禁教後も福江藩では比較的取り締まりが緩やかだったため、江戸時代中期に長崎本土の大村藩領から多くの潜伏キリシタンが渡ってきた。彼らは峻険な山地や絶海のほとりに隠れ住むようにして信仰を守り続けた。
現在も五島列島のキリスト教信者は人口の約1割以上と比較的多く、廃堂も含めると約50の教会堂が点在している。
上五島のキリシタン遺産
頭ヶ島の海辺に佇む頭ヶ島天主堂は、大正8年(1919)に建立された全国的にも珍しい石造りの教会だ。教会建築で手腕を発揮した鉄川与助の設計のもと、信徒たちが対岸のロクロ島から石を切り出して積み上げ、約10年もの時間をかけて築かれた。この石は五島石とよばれる堆積岩で、竜山石にも似た風合いだ。内部に五島に自生する椿をモチーフにした花の装飾があることから「花の御堂」ともよばれ、信仰を守り続ける地元の人々の心をやさしく包んでいる。
十字架のような形をした中通島の北に延びる半島の根元にある青砂ヶ浦天主堂も鉄川与助の設計で、明治43年(1910)に建てられた。一世紀の時を超えて今なお信仰やコミュニティの中心にあり、この日も子どもたちが訪ねてきた。そんな海辺の小さな集落の日常は、映画のワンシーンみたいだ。
中通島の西に浮かぶ若松島には、明治期の迫害の際に信徒たちが逃れたといわれるキリシタン洞窟がある。海が迫る崖に潜む冷たく暗い岩窟の中で祈りを捧げた先人たちの深い信心と強い忍耐が、寄せる波涛に滲み出るようだ。
奈留島・久賀島の天主堂
五島列島の中央部に位置する奈留島の北西部、浜に近い森に映える江上天主堂は大正7年(1918)の建立で、鉄川与助の知恵と工夫が詰まっている。このあたりは湿気が多いため高床式の構造で、しかも土台周りに敷石をめぐらせ雨垂れで美しい壁が汚れないように配慮。館内は「手掻き」の手法で柱の木目を際立たせ、窓ガラスに桜の花が描かれている。信者たちの心が体現された空間なのだろう。
奈留島の南西、馬蹄型の久賀島は明治期のキリスト教迫害が激しかったところで、8か月の長期間にわたり200名もの信徒がわずか12畳ほどの牢に押し込められ、42名が命を失った。そんな悲しき事件があったためか、この島では禁教が解けるといち早く教会堂が築かれたが、旧五輪教会堂もまた明治14年(1881)、島の西南部の浜脇に建てられ、昭和6年(1931)に五輪に移築された。外観は木造の和風建築だが、中は洋風のリブ・ヴォールト天井で、そのギャップに驚く。宗教的、文化的な価値だけでなく、素朴な祭壇の何気ない、しかし繊細な装飾や、入口ドア上の木枠のステンドグラスなどに往時の匠の技が息づいて建築史的にも重要であり、新たな教会堂が建てられた後も創建時とほぼ変わらぬ姿で大切に保存されている。五輪は島東岸の小さな孤村。そこで絹糸のように細くも清らかに紡がれてきた信仰の糸を実感し感動を覚える。
風光明媚な景色と洒脱で凛とした教会のコントラストに、ここが日本であることを忘れてしまう五島列島は、新鮮な魚貝や「五島手延うどん」などのグルメも愉しめ、見どころも多い。そして人々も温かい。ぜひ、一度は訪ねてみよう。
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