12月号
国際色豊かな、北野町の暮らし
北野町には、外国人と日本人が共に暮らす、自然な光景があった。この地で事業を手がけられ、ご自身も北野町に住まわれている、浅木隆子さんに、北野町の歩みやこの地に暮らす魅力について伺った。
神戸港開港が、北野にとって大きな転機に
2017年に開港150年を迎える神戸。開港後、外国人たちが住居を建てるための「雑居地」として国から指定されたことが北野村にとって大きな転機になりました。
それまでこの地域は、三本松のお不動さんと一宮神社、浄福寺を中心に形成された人口250人ほどのごく普通の村で、田んぼや畑、その間に細い畦道があったようです。残っている明治初め頃の写真を見ると、海に向かって生田神社と競馬場、他には海岸しか見渡せません。他にもいくつか候補地がある中から、こんな急な坂道の上を外国人たちは何故選んだのでしょう?田畑と細い道しかないので広い敷地が確保でき、大邸宅を建てやすかったこともあるでしょうね。
また、高台の邸宅から、自分の国や会社の船が港に入って来るのを確認して、ゆっくりと坂道を下って居留地のオフィスへ向かうことができたことも、仕事をする上でとても好条件だったのではないでしょうか。
元々、開放的でいろいろなものを受け入れる神戸人気質ですから、外国人が好む野菜を農家が作り始めたり、万国病院(現・海星病院)ができたり、いくつもの宗教の教会や寺院ができたり、外国人が住みやすい環境へと順応していったようです。
北野町に嫁いで、暮らすことになった「異人館」
私が北野町に嫁いで来てから、今はオフィスにしているこの異人館に住むようになりました。大正7年 (1918)に建てられたもので、母屋が国の登録有形文化財に指定されています。とても素敵なシャンデリアがあり、いつもたくさんの人が集まる家でしたね。冬は暖炉で薪を燃やしていましたので、煙突掃除をする人が屋根に上り、大きなブラシが付いた棒を入れてススを落としていました。時には鳥の巣がドサッと落ちて来たり(笑)。震災では漆喰の壁が剥がれ、天井も落ちる大きな被害を受けました。すでに修復できる職人さんがおらず、残念ながら漆喰の壁は復元できませんでした。
「北野クラブ」は主人のお母さんが、昭和32年(1957)にこの異人館の庭で開業したものです。とても魅力的でバイタリティーのある人でしたので皆さんに愛され、こんな坂の上の何もない所にもかかわらず、宮さまをはじめ、世界中のVIPの方々に来ていただくようになりました。とくに商社勤めの方々には欠かせない社交場になりました。
北野クラブのシンボル「たんぽぽ」の照明は、お義父さんのデザインによるもので、「ここで育ち、たんぽぽのように世界に飛んで行き、そこで根を下ろし、また咲いてください」という思いが込められているそうです。365個のライトは震災後も点し続け、帰って来た方から「北野は健在だと分かってホッとした」と言っていただきました。
住民の意識を変えた『風見鶏』ブーム
昭和52年(1977)、ドイツパンのお店「フロインドリーブ」をモデルにしたドラマ『風見鶏』がNHKで放映されました。これを機に観光客がドッと押し寄せました。異人館で外国人が暮らしている街が、そのままスタジオを見るような面白さと、急な坂を上ると海と港が見渡せて、朝夕は汽笛が聞こえてくるエキゾチックな雰囲気が魅力だったのでしょうね。
ところが、道は狭い、駐車場はない、ごみ箱はない、トイレがない等々、受け入れ態勢が何もないのですから、住人は大変。塀を上って中をのぞき「あっ!日本人や」などと言われて(笑)。「何とかしなくては」と「北野・山本地区をまもり、そだてる会」が結成され、ごみの処理や掃除を始めました。当初は「何でこんなことを住民がしなくてはいけないの?」という思いとの葛藤がありました。
しかし、この光景が、北野、山本地区の歴史的価値を住民が再認識するきっかけになりました。価値を認めて観光客が来てくれるのですから、街の掃除や整備も「おもてなし」という気持ちに変わっていきました。そして震災後、観光客の足が途絶えたときも、何とか元の賑わいを取り戻そうと強い意志をもって立ち上がりました。北野町は観光化が進んだことで、街がひとつになり、活気をもたらしたと感じます。さらに現在では、住宅地、観光地、商業地としての棲み分けを大切にしながら発展してきたエリアだと感じます。
いつの時代も、私たちの気持ちはウエルカム!
歩いてみると分かるように、北野町には異人館だけでなく立派な日本家屋も多く残っています。まさに明治の初めに国が定めた「雑居地」です。日本人と外国人が混在する和洋折衷の街。人種も宗教も全てが混在しています。世界ではたったひとつの宗教であんなに戦争をしているのに、この狭いエリアにいくつもの宗教施設もあり、ごく自然に受け入れられているのです。文化や暮らしも混在しています。道のこちら側では、お正月の準備の餅つきをして、七夕になると笹に短冊を飾り…、あちら側では、荷車を引いたおじさんが朝から牛乳や生クリームを配達し、ケーキを焼く匂いが漂ってくる。昔から、こんな光景がごく当たり前の街だったのです。
この気質と雰囲気は今も変わりません。だから私たちは、いつでもウエルカム!北野町に新たな暮らしを求めて来られる人たちは、きっと「北野町だから住みたい」と思われるのでしょう。新しい視点をもって街を支えて下さると期待しております。
「北野・山本地区をまもり、そだてる会」では、毎年春に40万本の花のじゅうたんを敷き詰める「インフィオラータこうべ北野坂」をもう20年間続けています。デザインを公募して住民もボランティアで参加して飾りつけをします。他に国際的で楽しいイベントも開催しており、北野町が育んできた国際性を大切にしています。
時代を経ても色あせない国際性
北野町はパリ市モンマルトル地区と友好提携を結んでいます。これは、大都市の中にあって坂道が多く、高台から美しい街並みを見渡すことができる眺望の素晴らしさ、さらに住民が一致団結して、住宅地と観光地とが調和した街を形成しているなど共通点が多いことがきっかけになっています。阪神・淡路大震災から10年を迎えた平成17年に、モンマルトル観光協会と「北野・山本地区をまもり、そだてる会」とが、友好交流協定書に調印し、文化・芸術や街づくりにおける交流、青少年の交流や観光交流などの友好交流事業を推進していくことを誓い合いました。同年10月には、北野町広場に両地区の友好提携記念銘板が設置されました。
平成20年5月には、「インフィオラータこうべ北野坂」開催に合わせ、モンマルトル観光協会から会長と副会長らが来神されました。それ以降も、神戸からモンマルトル地区に表敬訪問を行い、現在でも交流が続いています。今年10月には、モンマルトル地区にあるブドウ園にお伺いする予定です。また、インフィオラータの本場で、ローマ近郊にあるジェンツァーノ市とも交流がはじまり、2004年には市長が来神されたことをきっかけに、現在では、花絵のデザイナーとの協力体制を築いています。それだけでなく、神戸からもジェンツァーノ市へ花絵の使節団が出向き、現地で作品を披露しました。
国際色豊かな歴史をもつ北野町では、現在でも様々な国際的な活動を行っています。
浅木 隆子 さん
北野・山本地区をまもり、そだてる会 会長
アサキインターナショナル株式会社
代表取締役副会長