12月号
北野の歴史と邸宅街としての真価
神戸のエスプリを感じる、北野町
ひっきりなしに人々が行き交う三宮駅から北野坂へ。山手幹線を越えるとゆるやかだった坂がにわかにその角度を増し、落ち着いた並木道に涼やかな風が吹き抜けていく。仰げば山の緑まぶしく、紺碧の空に綿のような白雲がふわり。最後の急坂を登り、振り返れば海もまた碧く、汽笛が潮風に乗って届く。
ここ、北野町界隈はまさに神戸のエスプリを感じる街。クラシカルな異人館が地元の人々によって愛され、守られている。近年では単に保存するだけでなく、レストランやカフェなどとしても活用され、その趣に満ちた空間を楽しむこともできる。
エスプリの根底には、この街の歴史がある。明治時代中頃に外国人たちの住まう住宅地として開発され、トアロードを馬車で通い、居留地の職場へ通うという優雅なライフスタイルがあった。そして、母国を離れて暮らす彼らが見晴らしの良い高台に家を構えたのは、もしかしたら海を望むことではるか遠い故郷とつながりを感じるためだったのではないだろうか。エレガントな生活と望郷の思い。華麗さに淡い郷愁が滲むこの土地の記憶が、いま文化として輝いている。
北野の歩みとその価値
かつてこのあたりは、山裾ののどかな農村であった。東西に走る古道のちょうど峠にあたるところに三本の松があり、旅人の目印になっていたと伝わる。
変貌を遂げるのは明治時代。慶応3年(1868)に開港した神戸では、外国人の居住は居留地に限られていたが、政情不穏などによる工事の遅れなどにより居留地内に住居を確保できず、政府は開港のわずか4か月後にやむなくその周囲を雑居地に指定。北野町界隈もそのエリアに含まれ、外国人たちが住みはじめた。明治初期には7軒ほどの外国人住居があったという。
北野・山本地区が発展するのは明治20年代。トアロードが開通し、街路整備により街の基盤が整ってからである。以降、明治20年代後半から明治30年代を中心に、大正初期にかけて装飾的な外国人住宅、いわゆる異人館が盛んに建てられ、その数は約200棟にものぼった。
やがて異人館は戦災を逃れたものの、高度経済成長の渦に巻き込まれ、その多くが取り壊されビルなどに姿を変えた。一方でその一部が保存され、阪神・淡路大震災で大きな被害を受けたものの修復されて、今なおその美しい姿で街を彩っている。
景観計画地区に指定される「北野町、山本通」
北野町、山本通の異人館が集中するエリアは、国により伝統的建造物群保存地区に指定されて街並みが守られている。また、伝統的建造物群保存地区を囲むように、景観法に基づき、景観計画区域が図られている。建築物はもちろん、看板から植栽に至るまで厳しい規制により景観保全が義務づけられているのである。
この界隈では昭和30年代頃よりホテルが進出、さらに昭和40年代頃より高度成長期の建設ラッシュにより老朽化した異人館に代わってビルなどが建ち並ぶようになった。そんな状況に危惧を抱いた地元の人たちが街の美観の保存を訴え、さらに昭和52年(1977)にNHK連続テレビ小説『風見鶏』の放映で観光客が増加したことも相まってその機運が高まり、それが伝統的建造物群保存地区や景観計画区域の指定に結びつき、北野らしい異国情緒あふれる風景が守られ、受け継がれている。
現在は観光地として定着しているが、やはりその本質は住宅地。特に景観計画区域に指定されたことで、その緑や閑静さなどの環境まで保たれ、住み心地の良さも昔ながら。ここでは伝統、眺望、緑とともに、「暮らす価値」もまた守られているのである。
北野異人館よ、とわに!
異人館を建築の面から見てみると、ヨーロッパの商人たちの歩みが浮かび上がってくる。列柱に支えられたバルコニー。建物正面中央に据えられた玄関。17~18世紀のヨーロッパ列強が支配した植民地に多くみられたコロニアル様式を受け継ぎ、インドや東南アジアなどを経て日本にたどり着いた経緯を感じさせる。技術的にもデザイン的にもその後の日本の建築に大きな影響を与え、私たちが何気なく使っている個室、居間、ダイニングなど目的を分けた住居プランニングも、わが国においてその嚆矢となったのは異人館という説もある。
スタンダードな異人館は、1階には階段のある玄関ホール、居間、応接室、食堂などの公的空間、2階には寝室を主とした個室を設けた私的空間を配し、それぞれにベランダがある開放的なスタイル。コーニスや煙突をあしらい、張り出し窓もまた異国情緒を醸し出す。
個人の住宅として建てられたので、その個性も豊か。ドイツ人建築家によって建てられた神戸のシンボル「風見鶏の館」(旧トーマス住宅)や、コロニアル様式の特徴が色濃く残る萌黄の館(旧シャープ住宅)など、現在もさまざまな建物にふれることができる。