12月号
ひょうご・こうべ 歴史絵巻ー時代の節目に必ず登場 歴史の舞台になった神戸
園田学園女子大学名誉教授
神戸学院大学客員教授 田辺 眞人さん
神戸を選んだ清盛の狙いは?
─来年のNHK大河ドラマは「平清盛」ですが、清盛はなぜ福原や大輪田泊に目を付けたのでしょう。
田辺 古墳文化の時代から瀬戸内海は非常に安全な交通路でしたが、現在のように一度に長い航海はできませんから、次々と港に寄りながら旅していきました。大輪田泊は奈良時代から使われだし、瀬戸内海航路の最終ターミナルである浪速津(大阪)のひとつ手前の港でした。ところが平安時代の頃になって、浪速津は大阪平野の西端ですから傾斜がなだらかな上、淀川や大和川などの大河が土砂を運んで、自然条件として港が使いにくくなってしまったのです。おまけに平安遷都という社会条件もあり、浪速のひとつ手前にある大輪田の方が便利な港になってきたのです。その平安時代の最後の頃が清盛の時代なのです。大輪田泊は和田岬が南西からの波風を防いでくれますが、南東からの波風の防ぎようがなかった。そこで、清盛はこの港をより安全にするために沖合に島を作って防波堤にしたのですが、これが港の安全性向上に寄与したために、実は鎌倉時代以降は大輪田泊という名称が、航路上の停泊地を意味する「泊」から、ターミナル港湾の「津」へランクが上がり、兵庫津とよばれるようになるのです。
ところで、京都の西の入口は天王山の麓の山崎、東の入口は逢坂山ですが、いずれも戦の場になりました。山崎では豊臣秀吉と明智光秀が戦い、逢坂山の東では木曽義仲を源義経らが攻めていますが、このいずれの戦いも京都方が負けているのです。私が思うに、そこまで敵を入れてはいけないのです。その外側には平野が広がっていますが、その外で逃げ道がないところはというと、東は関ヶ原、西は甲山から須磨にかけての神戸の土地になるのです。都の東西の入口が逢坂山と山崎だとしたら、首都圏の東西の入口は関ヶ原と神戸ということになります。そうすると戦略的な知恵がある人ならば、福原は非常に大事な地だとわかったでしょう。現に清盛の死後、一ノ谷の戦いと湊川の戦いと花隈の合戦がおこりますが、つまり神戸の土地は天下分け目の戦いに必ず出てくるわけです。一ノ谷の合戦が平安と鎌倉の間ということは、古代と中世の転換期なのです。湊川の戦いは鎌倉と室町の間ですから中世の前期と後期の転換期、花隈合戦は戦国と安土桃山ですから中世と近世の転換期になるわけです。日本の歴史の転換期に、神戸では必ず決戦のひとつがおこなわれているのです。いわば神戸は「西の関ヶ原」なのですが、むしろ関ヶ原より重要なのは瀬戸内海航路のターミナルも直結していることです。
平家は若い頃の清盛も、彼の父や祖父の代も瀬戸内海周辺の国司でしたし、一族も瀬戸内から九州にかけての役人を務めていましたから、清盛は瀬戸内の水上交通や、さらに海の彼方にある外国にも関心も知識もあったのでしょう。都に関心を持ち、西国の侍を見据えた清盛にとって、神戸の土地は地勢的に重要な土地であったのです。
「鵯越」と「一ノ谷」の謎
─清盛は夢半ばで死んでしまい、源平合戦がはじまります。一ノ谷の合戦がおこります。
田辺 一ノ谷の合戦といえば、義経の鵯越の逆落としで知られています。しかし、一ノ谷はいまの須磨あたりですが、須磨には鵯越はありません。鵯越という地名は兵庫区の北の山ですから、神戸の地理を知っている人ならばおかしいと思うわけです。問題の起こりは、平家物語に「一ノ谷の後ろなる鵯越」と何度も書かれていることです。それで、5年前、義経の大河ドラマの時に、いろんな記述を読み返したのです。すると、あることに気がつきました。このことに気がつく前は私も平家物語の記述に書き損じがあると思っていたのですけれど、あるポイントに気がついて読んでみたら、書き損じではなかったのです。
平家物語には、平家は東は生田の森、西は一ノ谷に陣をおいて、福原・兵庫・板宿・須磨にこもる勢十万余騎とあり、そのうち1万騎を割いて山の手へと差し向けけると書いてあるのです。で「山の手と申すは鵯越の麓なり」とあります。つまり東の生田、西の一ノ谷と、北の鵯越の麓の3か所に陣を敷いたのです。また、西の陣である一ノ谷の総大将が薩摩守忠度でしたが、『平家物語』には「忠度は一ノ谷の西手の大将軍にておはしければ」という記述があるのです。一ノ谷は平家軍の西の端ですが、一ノ谷という範囲に焦点を当てたら、一ノ谷の西から義経軍が来て、忠度は東を守っている。ということは、忠度は一ノ谷の東手の大将軍でないとおかしいのです。さらに、2月の4日に源氏軍は京都を発って、範頼と義経が神戸を攻めていくのですが、そのときに「二月七日の卯の刻に一ノ谷の東西の木戸口にて源平矢合わせ」と決めているのです。この3つの記述だけでも何か気づきませんか?
では、『平家物語』以外でも、『義経記』に「一ノ谷にこもる平家の勢十万余騎」と書いてあるのです。私はそれを見て意味がわかったのですよ。義経記では一ノ谷に十万騎とあり、平家物語では平家は東は生田の森、西は一ノ谷に、その間、福原・兵庫・板宿・須磨十万騎とある。つまり、「一ノ谷」イコール「東は生田の森、西は一ノ谷、その間、福原・兵庫・板宿・須磨」ということになり、一ノ谷という地名を広狭二義で使っているということですよ。「兵庫」といっても兵庫区もあれば兵庫県もあるように、どうも当時神戸の旧市街地全体を広い意味の「一ノ谷」とよんでいた可能性があると気づいたのです。
「二月七日に卯の刻に一ノ谷の東西の木戸口にて源平矢合わせ」は、狭い意味の一ノ谷だけであれば生田の方を決めないのは不自然ですが、広い意味の一ノ谷なら合点がいきます。忠度も広い意味での一ノ谷の西手の大将です。「一ノ谷の後ろなる鵯越」というのも、広い意味ならおかしくありません。
歴史は未来へのヒント
─ひょうご・こうべの歴史を歩くならどこがおすすめですか。
田辺 「ひょうご」では中央市場を出て、大輪田橋を渡って、清盛塚~真光寺~能福寺へ出て、札場の辻跡へ戻って、来迎寺を経て中央市場に戻るルートですね。「こうべ」でしたら花時計からスタートして、東遊園地で加納宗七像や洋服発祥の地の碑、モーツァルト像を見て、モラエス像とアレキサンダー・キャメロン・シムの顕彰地を経て東南から居留地に入り、京町を渡って、時間があれば市立博物館を見学して、旧居留地十五番館とその東側にある日本最古の下水管を見て、2筋西へ行って明石町と播磨町の間を北へ上がって、三宮神社で神戸事件、それから大丸の元町入口の方へ回って居留地100年の記念碑、そして南京町の長安門へという感じです。両方の港町を楽しめるでしょう。
─歴史を知ることで未来への視点が開かれることはありますか。
田辺 子どもたちが学校を卒業し、社会へ出て、どういう仕事をしようかという時に、その子の生い立ちを振り返ることがひとつヒントを与えてくれますよね。同じように、社会の“今”や“未来”を考える時のヒントとして、歴史は大きな情報を与えてくれるのです。個人で言えば生い立ちとか、企業で言えば業績とか、そのようなものを社会では歴史というのです。歴史が単に過去であるだけなら、すべて忘れればいいのです。われわれは昨日のために生きているのではありませんから。
田辺眞人(たなべ まこと)
園田学園女子大学名誉教授 宝塚市教育委員長
神戸学院大学客員教授
1947年神戸生まれ。関西学院大学文学部史学科卒業。1986~91年ニュージーランド政府教育省・国立マッセイ大学勤務。神戸まちと歴史の研究会会長、神戸歴史クラブ会長など。毎週日曜朝10:00~12:00ラジオ関西「田辺眞人のまっこと! ラジオ」、水・木曜朝6:00~9:00「三上公也の情報アサイチ!」に出演中。