3月号
<インタビュー>はじまりの島・ はじまりの時
淡路地方史研究会会長
淡路文化団体連絡協議会会長
武田 信一さん
―古事記で「国生み神話」はどのように紹介されているのですか。
武田 まだ海に陸地がないころのこと。天におられる神様が、男神「イザナギノミコト」と女神「イザナミノミコト」に「天の沼矛」を渡し「これで海の中に陸地をつくれ」と命じます。イザナギ、イザナミは「天の浮橋」をつたって下りてきて、海を矛でかき混ぜました。その矛の先から滴り落ちたしずくが固まってできたのが「おのころ島」です。仁徳天皇の歌にも登場します。それがどこかというと、絵島、自凝島(おのころじま)神社、友が島など様々な伝承があり、その一つが南あわじ市の沼島で、上立神岩は「天の御柱」とも言われています。
―いずれにしても淡路島近辺ということですね。
武田 そうです。そして、おのころ島にイザナギ・イザナミが上陸し、太い柱を建てて宮殿を造り、その中で二神は結ばれます。子どもが生まれますが、最初の子が、「水蛭子(ひるご)」であったため海に流してしまいます。2番目の子も一人前ではないので二神は天に戻り、「何故、一人前の子どもができないのか」を神様に占ってもらいます。すると、先に女神のイザナミから男神のイザナギに声をかけたことが災いしていると分かりました。そこで、おのころ島に帰った二神は、今度は男神から女神に声をかけます。そして結ばれ、子どもが生まれたのです。それが、二神から初めて生まれた一人前の子ども(陸地)、淡路島だったのです。その後、四国、隠岐、九州…と次々に子どもをつくり、大八島の国ができたのです。「淡路島=おのころ島」と思っておられる方も多いと思いますが、おのころ島から最初に生まれた立派な子ども、つまり島が淡路島なのです。
―初めての子ども・水蛭子は、蛭子様と関係があるのでしょうか。
武田 淡路で生まれた水蛭子は、船に乗せられ明石海峡に流されました。その船が西宮の沖に近づいたところを漁師が見つけて、乗っていた水蛭子を神様として祀った。それが西宮蛭子だという伝承が淡路には残っています。
―1300年前、古事記の編纂に至った経緯とは。
武田 古事記の序文には、天武天皇が天皇家の記録などを稗田阿礼に「誦習(しょうしゅう)させた」となっています。おそらく繰り返し読み、覚えたのでしょうね。それを後に、太安万侶(おおのやすまろ)が3巻の古事記にまとめたと言われています。
―国生みの島としてトップに出てくるのが何故、淡路だったのでしょうか。
武田 天皇家と淡路は古くから深い繋がりがありました。古事記の中でも、三代天皇・安寧天皇の孫の和知都美命(わちつみのみこと)が淡路の御井宮(みいのみや)におられたと出てきます。日本書紀でも、4~6世紀ころの天皇が度々淡路に来られ、特に反正天皇は淡路でお生まれになったとなっています。こういった天皇家との関わりの中で、元々淡路の人たちが語り継いできた素朴な「島生み」の話が天皇家に伝えられ、壮大な「国生み」の話になっていったのではないかと思います。
―地理的な理由や食べ物が豊富なことも関係しているのでしょうね。
武田 海辺に住み、海で漁をする「海人(あま)」達がまず天皇家に仕えるようになり、やがて淡路全島が天皇家の強力な支配下に置かれることになります。仁徳天皇のころには大阪から泉州あたりに天皇家が移られ、淡路は交通や軍事で重要な位置になります。そういう中で、天皇家に食料を献上する役割も担い、淡路の海人が天皇家の親衛隊にもなったのでしょう。
―その後の歴史の中で淡路は忘れられてきたというイメージがありますが…。
武田 確かに、古事記や日本書紀には淡路が度々登場するのですが、平安中期以降は朝廷の歴史の中にはあまり登場しません。中央における淡路の存在価値が薄くなってきたということでしょうね。そんな中でも、やはり繋がりは続いていたのですが…。
―淡路島古事記編纂1300年記念事業推進会議ではアドバイザーをされておられますが…。
武田 くにうみ協会を始めいろいろな方が相談にいらっしゃいますが、私が特に役割を持っているわけではないのです。2月19日の記念シンポジウムにはパネリストとして参加させていただきました。くにうみ講座の講師や、くにうみ縁の地を巡るツアーなどあちこちから案内役を仰せつかったりしています。
武田信一(たけだ しんいち)
1958年、大阪学芸大学学芸学部(現・大阪教育大学)を卒業後、38年間、大阪市と兵庫県で教員生活をおくる。1996年、兵庫県立洲本高等学校を退職後、2年間、洲本市立淡路文化史料館長を務める。淡路地方史研究会会長。