10月号
神戸鉄人伝 第118回 和太鼓松村組代表 松村 公彦(まつむら きみひこ)さん
響きわたる太鼓の音。そこに民族楽器、マリンバ始め様々な打楽器が加わり独特な世界が展開します。来年結成25年になる和太鼓松村組。神戸に生まれ、今や全国にその名を轟かせるチームを率いる松村公彦さんに、お話をうかがいました。
―音楽の道に進まれたのは?
塩屋幼稚園のマリンバ教室で習うようになったのが始まりです。何でも担任の先生が、母に「公彦君はハーモニカが上手だから音楽が向いている」とおっしゃったとか。それで師匠・宮本慶子先生と巡り合うことになりました。小中高通して、先生は決して優秀ではない私をきちんと叱ってくれ、見放さずに育ててくれました。宮本先生との出会いが無ければ、音楽の世界で生きてはいなかったでしょう。
―そして音大へ進まれたのですね。
大阪芸術大学に進学し、大阪フィルハーモニー首席奏者の八田耕治先生に師事し打楽器の魅力にはまります。オーケストラと共演し、一時はプレイヤーを夢見ました。でも卒業後は神戸市の教員になります。教員の仕事はやり甲斐もあって、尊敬できる先輩にも恵まれとても充実していました。
―和太鼓との出会いは?
大学の同期生の和太鼓演奏です。すごい衝撃を受けました。1993年、その同期生がプロデュースする和太鼓フェスティバルにマリンバ奏者として出演したのですが、彼が舞台でいきなり私に太鼓をやらせたんです。もちろん初めてですし、ティンパニとは奏法が違う。恥をかき負けじ魂が燃え上がり、本気でやる気になりました。
―早速に勤務しておられた学校で、部活動を始めたとか。
高校3年生の、いわゆる自分の居場所を探している子たちを集め、和太鼓同好会を発足させました。ランニング、腹筋、鉄パイプを切ったもので素振り、古タイヤを叩いて…と傍目には何をしているかわからない集団だったでしょう。彼らも最初は練習が嫌で逃げ回っていたのですが、文化祭で演奏したら大喝采!皆に誉められて戸惑っていましたよ。
―1995年、阪神・淡路大震災が起きます。
3月に避難所で演奏を行い「ありがとう!」と言われ、逆にエネルギーもらいました。メンバーは卒業を迎えていましたが、思うところがあったのか2人が「卒業しても続けたい」と言い出しました。それで私自身、学生時代にプレイヤーを夢見た気持ちに火がついて、7月に私、妻、卒業生の2人とで和太鼓松村組を結成しました。
―その後、教員を辞められたのですね。
正直ものすごく迷い、悩みました。教員の仕事は楽しい、でも音楽に専念したい。こんな宙ぶらりんの自分が生徒の進路相談に乗るなんて…と。そんな時、塩屋幼稚園の担任の先生が演奏会に来てくれて「教師は確かにすばらしい仕事だけど、太鼓はあなたにしかできないことだ」と。30年振りに会ったのに、お見通しでした。妻には「いつか言い出すと思っていた」と言われ、2001年3月に16年間の教員生活にピリオドを打ちました。
―和太鼓松村組、本格始動の後は?
レパートリーを増やすために作曲も手掛け、様々なジャンルとのセッションも行ってきました。メンバーは入れ替わり、今8人です。神戸文化ホール事業部が応援してくださって今年で20年、この11月には「月華」というタイトルで月光をテーマにした公演を行います。支えてくださる皆さんへの感謝を忘れず、これからも頑張っていきます。(2019年8月27日取材)
舞台での迫力、そして謙虚さを併せ持つ松村さん。ますますのご活躍を祈ります!
とみさわ かよの
神戸のまちとそこに生きる人々を剪画(切り絵)で描き続けている。平成25年度神戸市文化奨励賞、平成25年度半どんの会及川記念芸術文化奨励賞受賞。神戸市出身・在住。日本剪画協会会員・認定講師、神戸芸術文化会議会員、神戸新聞文化センター講師。