9月号
連載エッセイ/喫茶店の書斎から㊵ ドリアン助川さん
今村 欣史
書 ・ 六車明峰
女優、樹木希林さんは名優ではあったが、話題になるほどの主演作というのはない、と思う。テレビコマーシャルを除いては、ほぼすべて脇役である。しかし、晩年に一作だけ話題になった主演映画がある。「あん」である。希林さんの代表作といえるだろう。
テーマはハンセン病。原作者は、ドリアン助川。
わたしは小説『あん』(ポプラ社・2013年)を、刊行後すぐに読んでいる。その時、これは映画になればいいなと思いながら読んだ。そして主役は樹木希林で、と。
小説『あん』は、国内はおろか海外でも大ヒットし、フランスでは二つの文学賞を得た。今では世界十数か国で翻訳刊行されている。
やがて「あん」は、本当に希林さんで映画になった。正にはまり役と言っていい。後にドリアンさんから聞いた話だが、執筆中すでに主役は希林さんを想定していたと。
長い映画人生の中で、ほぼ主演映画のなかった希林さんだが、この映画でカンヌ国際映画祭にドリアンさんのエスコートで出かけている。海外の映画祭に出席したのはこれが初めてだったのだ。
東日本大震災より少し前、もう10年ほどにもなるだろうか。わたしはパソコンで調べ事をしていた。するとあるブログにたどり着いた。それは宮城県で道化やパントマイムなどのパフォーマンスを展開している森文子さんという人のブログだった。その文章が素晴らしかった。下手な詩人よりもよほど詩心がある。すっかり感心したわたしはコメントを入れ、それから彼女とネット上でのつながりができた。その後あの震災があったりして、ますます交流が深まるのだが、ある時、彼女が「喫茶・輪」へやって来た。「東京まで来たついでに」と言って、物好きにも鈍行列車ではるばるやってきたのだ。
この人に「東北の女道化師」と名付けたのがドリアン助川さんなのである。
実はドリさん、作家、詩人、歌手のほかに道化師という肩書もお持ちだ。ピエロ姿のときには目の下に涙の雫が。ということで、森さんとのつながりがあり、わたしともつながることになったのである。それが5年ばかり前。そこで拙詩集『コーヒーカップの耳』をお送りしたのだが、それを読んだドリさんは、「喫茶・輪へ行きます」と約束されたのだ。
しかしその後、「あん」が大ヒットし、大いに忙しくなったドリさんは、とても喫茶店で油を売っている場合ではなくなったのである。
しかししかし、だ。このほど、東京在住のドリさんから「行きます」というメールが来た。5年前の約束を忘れてはおられなかったのだ。「何か楽しいこと、絵本の読み語りなどをしましょう」ということになり、なんと、今が旬の売れっ子作家が、ちっぽけな「喫茶・輪」でパフォーマンスとなったのである。しかもノーギャラ、友情出演である。
わたしは自分の人脈の中からこのイベントにふさわしそうな人約30人に来てもらった。それで店はいっぱいである。ドリさんは、一時間二十分、手を抜くことなく演じ切られた。マイクなし、文字通りの肉声で。
講演はご自分の原点ともいうべき次のような話から始まった。歌手でもあるから、よく通るいい声だ。
「子どものころに新宿から六甲の麓の芦屋にやってきました。するとドングリ一つ、落葉一枚にも色んな種類のものがあります。それから、ミカンの木にアゲハの幼虫がいて、捕って育ててみようとか。実は、今村さんのお孫さんの咲友ちゃんからさっき聞いたばかりなんですが、家でアゲハの幼虫を育てていたと。するとある日、どこかへ行っちゃいました。ところが何日か経って蝶になって帰って来たと。まさに今日、そんな体験をされたんだと。これは感動的ですよねえ。ぼくも子ども時代の芦屋で、川で沢蟹を捕ったり、夏には芦屋浜でウナギの子を捕ったりしました。東京では絶対に体験できない、そういう一つ一つのことが自分の少年時代の心象風景を形づくっていて、今、さまざまな物語を書く上での大きな要素になっています」
このあと、ご自分が創作された絵本『クロコダイルとイルカ』や翻訳された絵本などを、大人も子どもも楽しめるように読み語られた。そして最後に、希林さんとの個人的なエピソードなども交えて、「あん」の重要部分を朗読し、「輪」の店内に大きな感動を巻き起こして講演は終わった。わたしも大好きな文章。その一部。
《私たちはこの世を観るために生まれてきた。この世はただそれだけを望んでいた。だとすれば、教師になれずとも、勤め人になれずとも、この世に生まれてきた意味はある。》
■六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会計。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
■今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)ほか。