11月号
広い視野と深い心を持った大きな人間を育ててほしい|関西屈指の文教地区“六甲”について
神戸市医療監
一般財団法人 神戸在宅医療・介護推進財団 理事長
京都大学名誉教授
北 徹 さん
六甲学院OBの北徹さん。母校の思い出、これからに期待することなどお聞きした。歯に衣着せぬ言葉の奥からは、母校とそこから巣立っていく後輩たちへの深い愛情が感じとれる。
後になって分かった六甲学院の厳しさの意味
―何故、中学3年生から六甲学院に編入学を?
祖父の弟も父も医者という家系で、父は進んで無医村へ行く人間でしたから、小学校3回、中学校2回、転校するような生活でした。中学のころには静岡県島田市にいました。偶然、芦屋に住んでいた敬虔なカトリック教徒の叔母が六甲学院の編入生募集の貼り紙を六甲教会で見つけて知らせてくれ、受験することになって、7、8人が受けたのかな、1番、2番は問題なく合格。僕は何とか合格させてもらえたのではないかと思っています。
―六甲学院での思い出は。
まず思い出すのはトイレ掃除。上半身裸、素手でやるんですが、ある日、一生懸命便器を磨きピカピカにしたので褒められると思ったら、見回りの神父さんが何も言わずタイルとタイルの隙間に溜まった僅かなほこりを指ですくって見せました。言葉にこそしないけれど、「人が見てない所もきちんとやれ」ということなんですね。キリスト教の教えに通じるところですが、「これをやったら罪ですよ」などと言わずに、常日頃神父さんが態度で示していたのだと思います。そして2限と3限の間の、中間体操。厳しかったけれど、武宮校長自らパンツ姿で一緒にやるんです。他人に「やれ」というのではなく、自分から態度で示すことが大切なのだと教えられました。
―部活もやっていた?
弓道部に入って、高3の夏ごろまで続けていました。六甲学院のいいところは、部活をやらせること。お陰で、時間の使い方が上手になったかな。中2で中学の勉強を終え、中3から高校の内容、高3は予備校のようなもの。そんな中で部活も十分にやろうと思えば、時間配分をうまくやるしかない。部員はみんななかなか優秀で、いい大学にも進みました。集中力はものすごく付いたのでしょうね。
―勉強での思い出は。
高3の夏休み、京大生の先輩から、「六甲学院の世界史はギリシャ・ローマ時代史に力点をおいて教えすぎるが、京大の入試には東洋史が出るから、受からないよ」と言われ、そんなことは何も知らなかったから大慌て。歴史は好きだけど暗記ものが苦手な僕は、地理の先生に相談しました。すると、もう高3の夏休みだというのに、地図を広げてそこから世界史、東洋史、日本史を一緒に勉強しろというわけ。全体像を俯瞰しながら勉強しろということですが、それが意外とうまくいった。初めはしんどいけれど、慣れてくると頭に入ってくる。脳細胞は別のもの同士を結び付けて関連させて覚えると理解できるということを知ったのは、六甲学院で学んで良かったことの一つだと思っています。
―厳しさに反発したいと思ったことは。
朝の8時きっかりに、あのきつい坂を登って登校する。これは時間厳守の精神が身に付きました。その重要性は社会に出てから分かりました。人間の信用問題に直結しますから!!しかし「きっかり」の時間はどうやって決めるのかが疑問でした。武宮校長はNHKの午前6時の時報に合わせたそうですが、「その時報の根拠は」などと、今なら反発するでしょうが、当時はできなかった(笑)。厳しいといえば…女の子と一緒にいるのはダメ、たとえ席が空いていても座ったらダメ、ダメダメ。母が言うには僕は結構モテたみたいで(笑)、手紙も貰っていたらしいのですが、母が全部破り捨てて、一通も読んだこともない。お陰で大人になっても女性の扱い方が分からなくて困った。六甲学院の教育が役に立たなかった一つの良い例かな(笑)。
大学紛争の真っ只中、京大に進学
―京大進学を決めたのは何故?
親戚には医師が多く、父と祖父の弟が京大医学部という環境だったので何となく京大へ行くものだと思っていたけれど、高3の時、担任の化学の先生が「阪大だったら絶対に受かるから、京大はやめておけ」と。それくらいのことは自分でも分かっている。「京大落ちても僕のせいだから、いいんと違いますか?何年浪人しても僕が苦労するだけですから」と言い返しました(笑)。受験してみると、困ったことに得意な数学の試験が簡単過ぎて他のみんなと差を付けられない。周りはみんな賢い人間に見えるし、合格する自信なんか全然ない。京大しか受験しなかったので田舎へ帰って婆さんに話すと、「せわない、せわない、来年がある」と(笑)。ところが現役で合格。それを見て翌年は「自分も大丈夫」と後輩がたくさん受験して…、申し訳ないことをしました(笑)。
―京大医学部では猛勉強を?
ちょうど大学紛争のころ。入学して1年半ほど過ぎたら授業はない、試験はボイコット。大学紛争の本質は医学部医局の在り方にあったから、理解はできたけれど、ちゃらんぽらんな僕なんかは、あそこまではとてもできず、卒業できるのかだけは心配でした。当時真剣に闘っていた学生たちは本来なら大学病院や大病院で活躍するべき人材が、ほとんどは田舎の無医村に行って、まちおこしまでやっていたりして、本当の立派な医者になっています。
―勉強をせずに医師に?!
授業も試験もないわけだから、医者になっても知識がなくて患者を診られない。これは怖いことです。だから、英語の教科書(日本語で書かれた良い教科書がなかった時代)を必死で読んで知識を身に付けようと猛勉強しました。初めは医学用語一つ分からず、辞書を引きながら大変でしたが、慣れるもので1カ月もすると理解できるようになってきました。だから大学では勉強できない環境でしたが、医学の知識は誰よりもたくさんあると自信を持って言えます。
―医師になってから六甲学院の教えで役に立ったことは。
患者さんに対してきちんと説明し、理解してもらって同意を得る「インフォームドコンセント」の場面で、六甲学院での教育の影響を受けていると感じます。理解してもらうためには、自分が分かっていることを、相手も分かっているのかを感知しなくてはならない。患者さんは自分の言葉で理解し考えるわけだから、医者が自分の言葉で一方的に説明しても分かってはもらえない。例えがあまり良くないけれど…、アメリカで育った犬を日本に連れて来て「おすわり」と言っても理解してもらえないでしょう?それと同じことです。
人間の価値を決めるのは学力や能力だけではない。人間性だ
―今の六甲学院に思うことは。
偏差値だけに価値を置いていて、社会的風潮に影響されているように思えますね。にもかかわらず灘、甲陽には学業では差を付けられ、中途半端な存在になってしまっているように思えます。決して宗教を強要するわけではないのですが、成績さえよければ勝ち、学業ができなければ意味がないという風潮に流されることなく、せっかくカトリック精神という教育の根幹を持っているのですから、人間の本質的な部分に迫る教育で物事の善悪を教えるのが六甲学院のあるべき姿ではないでしょうか。
―今後の六甲学院に必要なものは。
世界に目を向ける教育だと思います。米国留学時代に「国はどこですか?何歳ですか?」などと聞くと、「なんの関係がある!」と激怒されました。人間の価値は国や人種、年齢、性別ではなく、まして学力や能力だけではない。人間の価値は、人間性です。東大、京大に何人合格、そんな日本的な価値観を持った学校になっていないだろうか?世界では今、何が起こっているのか“What`s going on? ”、多くの困っている人たちがどんな状況に置かれているのか、世界にはいいこともたくさんある等々…、そこまで踏み込んだ教育をするべきです。そうすれば、広い視野と深い心を持った、大きな人間を育てることができるはずです。
北 徹(きた とおる)
1947年京都生まれ。1961年私立六甲中学校(三年)編入学。1965年私立六甲高等学校卒。1971年京都大学医学部卒。1979年同大学院修了(京大医博)。1980年米国テキサス州立大学分子遺伝学教室留学。1988年京都大学老年医学教室教授。2005年京都大学理事・副学長。2008年神戸市立中央市民病院長をへて、2015年から神戸市医療監