11月号
連載 神戸秘話 ⑪ シネマのために生まれた男 映画監督・舛田利雄
文・瀬戸本 淳 (建築家)
私たちが幼い頃は、銀幕の黄金期だった。その時代に日活の「天皇」とよばれた舛田利雄は、実は神戸の出身だ。
舛田は1927年、船乗りの子として神戸で生まれた。神戸一中(現在の神戸高校)の46回生で、同期には旧みどり銀行頭取や神戸経済同友会代表幹事などを歴任した米田准三らがいる。卒業後は新居浜工業専門学校(現在の愛媛大学工学部)へ進学するも軍事教育に反発し退学、その約1ヶ月後に終戦を迎え、大阪外国語学校(現在の大阪大学外国語学部)へ入学、やがて映画に魅せられて上京する。
1950年に新東宝でキャリアをスタート、程なく日活へ移籍して1958年に監督となり、3作目の石原裕次郎主演『錆びたナイフ』が大ヒット。石原作品を数多く手がけ、日活アクション映画の基本を築く。1968年にフリーとなると戦争映画などにも携わるだけでなく、アニメやアイドルなどジャンルを超越してヒットを繰り出した。
印象深いのは石原裕次郎主演『赤い波止場』だ。1958年頃の神戸のシーンが多く出てくる。メリケン波止場、商船三井ビル、諏訪山、国際会館、神戸新聞会館など、モノクロだが懐かしい風景が彩り、神戸外国倶楽部の前からトアロードを見下ろして物語が終わる。そのリメイク版ともいえる渡哲也主演『紅の流れ星』は1967年頃に神戸で撮影され、朝日生命ビル、京町筋、県庁北の歩道橋、水上警察、摩耶大橋、さんちか入口などのシーンがあり、懐かしい市電も健在だ。カラーなのでいきいきと昔の神戸が甦る。
石原裕次郎は神戸生まれ、渡哲也・渡瀬恒彦兄弟は淡路の出身だ。ほかにも神戸出身の杉良太郎、神戸高校出身の高島忠夫など、舛田映画には兵庫ゆかりのスターも多数出演。『首都消失』の原作、小松左京は神戸一中のOBで『俺の血は他人の血』の原作の筒井康隆も神戸にゆかりがある。ちなみに『宇宙戦艦ヤマト』の脚本の藤川桂介氏は私と親しく、そんなことからも舛田映画に親近感を覚える。
舛田は自己の体験に立ち自分に相応しい最上の方法で80以上の作品を創っていたが、その広さ、深さにびっくりさせられる。刻々の映像の展開が人々に感動を、生きる悦びを与えていった。アウトローを身上としつつ、使命より使命へと身を捧げる充実した映画人生を送った。戦時中から戦後間もない頃の貧しく苦しい日本の社会は、大いに人々を幸せな気分にさせる人と能力を求めていた。そしてその人には活躍すべき自由の天地が待っていた。舛田はそんな見たこともない境地において、全身全霊で奮闘し、人々のために真剣に働いた。自分の身を殺しても取り組んだからこそ、自由の真理を知る偉大な監督になったのだ。
対話集を読むとわかるが、企画・原作・脚本・撮影・美術・音楽その他のスタッフや出演者たちとの愛の大きさ、深さが見えてくる。すべての人を愛し、感謝していた。本当に愛の人だ。舛田映画に不朽の名作は数知れないが、彼そのものが造化の傑作である。
※敬称略
※神戸高校鵬友会『鵬友』、シンコーミュージック・エンタテイメント『映画監督 舛田利雄』などを参考にしました。
舛田 利雄(ますだ としお)
映画監督
1927年、兵庫県生まれ。大阪外国語大学(現・大阪大学外国語学部)ロシア語学科卒業。1954年に新東宝に入社し、後に日活に移籍。助監督を経て1958年『心と肉体の旅』で監督デビューを飾る。日活アクション映画全盛期に石原裕次郎や小林旭主演のアクション作品を多く手がけ「日活の舛田天皇」とも言われた。代表作に「闘牛に賭ける男」、「太陽は狂ってる」、「上を向いて歩こう」、「花と竜」、「太陽への脱出」、「赤いハンカチ」、「人生劇場」、「赤い谷間の決闘」、「嵐を呼ぶ男」、「対決」、「大幹部」、「あゝひめゆりの塔」、「トラ・トラ・トラ!」、「さらば掟」、「人間革命」、「二百三高地」などがあり、作品数は80以上にのぼる。
瀬戸本 淳(せともと じゅん)
株式会社瀬戸本淳建築研究室 代表取締役
1947年、神戸生まれ。一級建築士・APECアーキテクト。神戸大学工学部建築学科卒業後、1977年に瀬戸本淳建築研究室を開設。以来、住まいを中心に、世良美術館・月光園鴻朧館など、様々な建築を手がけている。神戸市建築文化賞、兵庫県さわやか街づくり賞、神戸市文化活動功労賞、兵庫県まちづくり功労表彰、姫路市都市景観賞、西宮市都市景観賞、国土交通大臣表彰などを受賞