2月号
浮世絵にみる 神戸ゆかりの「平清盛」 第14回
中右 瑛
鷲尾三郎の出世ロマン
各地に起こる源氏再興の声。平家討伐のひびきが各地に巻き起こる。
真っ先に平家討伐をくわだてた木曽義仲。頼朝・義経とは従兄弟、木曽で隠棲し、駒王丸と名乗っていた。治承4(1180)年、以仁王の平家討伐令を受けて、頼朝に続いて兵を挙げた。倶利伽羅谷の合戦でも地理に通じた義仲の快勝となった。しかし、近江粟津の合戦で、うち果ててしまった。
平清盛の死をきっかけに、源氏一族のすさまじい反撃に遭い、ついに平家一族は西国目指して落ちて行った。清盛の嫡男・重盛もいまはなく、平家一族は宗盛を筆頭に、幼少の安徳天皇を擁して、西海各地を流浪したが、安住の地はなかった。平家は一の谷で陣を構え、源氏の攻撃に備えたのである。
この場面で、平家討伐に颯爽と登場してくるのが源義経である。
義経は都を出て丹波路に向かった。その義経軍に立ちはだかったのが三草山(現在の兵庫県加東市)に布陣する平家軍勢だ。その陣の総大将は平資盛(すけもり)。いまは亡き重盛の次男、清盛の孫にあたる。
三草山を突破するには奇襲しかない。そう判断した義経は、その夜、集落に火を放ち、野原を焼き払い、混乱の中、三草山布陣に突撃した。戦略とはいえ理不尽な策略を実践した義経が「火つけ判官」といわれる所以だ。
対決する平家若大将・資盛と源氏の若大将・義経。双方の軍勢合わせて3千騎(1万3千騎とも伝える)。陣は血に染まった。激戦だが、義経はかろうじて突破したのだ。
夜討ちとは源氏の若大将がすることか。
「卑怯者!」
資盛は義経に叫んだ。
この時、義経は26歳、資盛24歳。
「三草山の対決」は奇襲が功を奏して、義経軍に軍配が挙がった。
資盛は西方の加古川の流れに沿って退却した。
「一の谷合戦」序盤の地「三草山」。いまは源平の古戦場として名を残す。
一方、義経軍は三草山の戦いで勝利をおさめ、一の谷目指して南下してきた。ところが、鵯越(ひよどりごえ)から白川付近に来て道に迷った。
戸惑う義経軍の前に現れたのが、地元の漁師・鷲尾三郎だ。彼は、武将に仕えて立身出世を夢見ていた若者。まさに千載一遇のチャンス。義経軍を一の谷山上に導いた。
この絵は、武者絵で有名な一勇斎国芳。ツキノワグマを生け捕る鷲尾三郎が描かれている。
そこに通り合わせた義経、弁慶の姿も見える。なかなかの強力ぶりに義経は感心して、道案内を乞うた。この後、鷲尾三郎は険しい山中を奇襲攻撃のできる山上に案内した。歴史的な“逆落とし”のまさに寸前。奇襲攻撃は義経軍に勝利をもたらした。三郎はその功労により晴れて家来になれたのである。
一介の若者が、偶然にも名将に仕え、のちには義経十傑とまでになる。鷲尾三郎の夢のような出世物語。そこに、激動に生きる男のロマンが躍動し、運命的で、不思議な、人と人との出会いを力説している。
そういうロマンに、江戸の人たちは憧れ、夢を燃やした。
中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。