5月号
有馬温泉歴史人物帖 ~其の拾四~ 赤松則祐(あかまつそくゆう) 1314~1371
なんと、インコグニート(知られざる存在)がブランニューへヴィース(革新的なワルども)に!?と申しましてもアシッドジャズじゃなくて、鎌倉時代末期に台頭してきた悪党のお話です。この悪党とはいわゆる悪事を働く連中のことではなく、時代の変化に乗じそれまでの社会秩序や価値観を打破して支配層に抗(あらが)った武士のことでございます。
その代表格が、播磨は佐用庄の赤松村から出てきた赤松円心(則村(のりむら))ですな。ちなみに佐用庄は執権の北条義時より九条道家に寄進されていますが、道家の妻の父は当連載其の八でご案内の西園寺公経(きんつね)でございます。
その円心の息子、赤松則祐は三男ということもあり、若くして延暦寺の僧となって天台座主の護良(もりよし)親王に仕えます。といっても数珠よりも刀という変な座主でしたので、武芸の稽古の相手ばかりだったとか。そして1331年に親王の父、後醍醐天皇が討幕のため蜂起して元弘の乱が勃発!親王も挙兵すると則祐はそれに従い、一時は山深い紀伊山地での潜伏にお付き合い。
そして親王から託された討幕の令旨を携え父のもとへ戻り、後醍醐側の一員として躍動。時には円心の制止を振り切り濁流へ突進!など勇ましく六波羅探題の陥落に貢献、鎌倉幕府は倒れ建武の新政と相成ります。
が、なぜか赤松氏は冷遇されちゃって、こらアカン…と公家政治に失望。で、かつて六波羅攻めでともに戦った足利尊氏が武家政治の復活を目指すと、スティル・ア・フレンド・オブ・マインとばかりにこれに協力。後醍醐天皇と縁があった有馬郡も武家方と宮方の戦場となりますが、ここに則祐が出陣!則祐軍の貴志義氏が、その姓から有馬温泉出身と思われる宮方の湯山円忍を討ち取って勝利します。
すると今度は尊氏と弟の直義(ただよし)の兄弟ゲンカ、観応の擾乱(じょうらん)が起きて、南北朝の争いと相混じってもうぐちゃぐちゃ。その頃、1350年に父の円心、その翌年に長兄の範資(のりすけ)が没し、播磨守護を受け継いだ則祐が赤松氏のトップに。その後は時に摂津守護も兼任しつつ、状況を察しながら知略で功を上げていきました。
そんな則祐は、南北朝統一のドリーム・オン・ドリーマーでした。存命中にそれは実現しませんでしたが、則祐が保護し養育した幼き春王丸がやがて三代室町将軍足利義満となり叶えます。ちなみに義満は1385年に有馬に入湯していますよ。
老いて病を患った則祐は1371年9月に有馬温泉で療養するも回復せず、その2か月後に都で亡くなりますが、それから20年後に五男の義祐(よしすけ)が有馬地頭職となって有馬姓を名乗り、ここに有馬氏が爆誕します。
で、実は、則祐は1368年にも有馬を訪ねており、なんと!…そのお話は次回に。