8月号
未来の社会を担う 子どもたちへ |自然の中にあるサイエンスが 「生きる力」を与えてくれる
科学技術振興機構
研究開発戦略センター
センター長
野依 良治さん
「こども本の森 神戸」で6月25日、2001年ノーベル化学賞を受賞した野依良治さんが講演し、約40組の親子が同館正面の大きな階段に座り耳を傾けた。この講演会は野依さんと親交が深い安藤忠雄さんが企画して実現したもの。野依さんが受賞したノーベル賞のメダルを間近に見て子どもたちは目を輝かせた。
人間には「文字」という
特別な技術がある
皆さんは今、何でもインターネットで調べています。でも図書館や本には思いもよらない出会いがあります。本を読むことは楽しいだけでなく、生きる力を与えてくれます。動物は遺伝子の力を駆使して生きていきます。その中で人間だけが文字というものを持ち、この特別な技術に支えられ知識や知恵を得て暮らしています。そして人間は自然の中だけでなく、社会で生きていく力がつきます。本を積極的に読んで、想像して考えることが大切です。決して学校の成績を上げるためではありません。
便利なものは、「生きる力」をつけてから使うもの
私は神戸で生まれ、大学生になるまで六甲山の麓に住んでいました。当時はポートアイランドなどなくて海岸通りの中突堤がまちの先端でした。生まれたころから戦争が始まっていて小学校に入る前に神戸が爆撃されました。ロシアが侵攻したウクライナ東部の都市のような状態に神戸がなったのです。爆撃から逃れるために私と弟たちは母親と一緒に兵庫県佐用という所へ行きました。そこでは何でも自分たちで作らないと暮らしていけません。電話もスーパーマーケットも、もちろんスマホもありません。米、野菜、魚、肉、何も買えません。野菜は近所で分けてもらい、ニワトリを飼って卵を手に入れました。鶏肉を食べるのは特別な日だけなので、自分で仕掛けを作って捕るスズメが貴重なたんぱく質源でした。電気はなかなか点かず、栓をひねったら蛇口から水が出るわけでもありません。ガスがないので山で薪を集めて火をおこし、靴もないので自分で草鞋を編みます。都会育ちの私は学校の成績は少し良かったのですが、生きていく力では地元の子どもたちに全然敵いませんでした。彼らは自然の中にある理科の力を使って、桁違いの生きる力を身につけていました。
現代には便利なものはたくさんありますが、もっと基本的な生きる力をつけた上で使わなくてはいけません。今のウクライナを見ても、農業という基本的な力があるから戦禍でも国として何とか生き延びています。
常に危機感を持って
「生きる力」を蓄える
ウクライナと同じようなことが今の神戸で起きるかもしれません。皆さんどうしますか?実は多くの皆さんは自分の力ではなく、他人の専門知識や優れた技術に頼って生きています。これが問題です。ウクライナの影響でエネルギー資源や小麦をはじめ食料が届かなくなったらどうしますか?生きる力がなくて悲鳴を上げるに違いありません。怖がるのではなく、常に危機感を持って自分で生きる力を蓄えていかなくてはいけません。そのためにはどうしたらいいのか?子どもさんにはちょっと難しいかな(笑)。お父さん、お母さん、お家に帰ったらぜひ議論してください。
私たちは宇宙の〝燃えカス〟
みんな〝奇跡の存在〟です
皆さんは138億年前にできた宇宙の中で、46億年前に生まれた地球で生存しているわけです。生き物を含めて全てが物質でできていて、どんどん砕いていくと一番小さな素粒子になります。物理学者はこの物質を研究しています。「昔は『宇宙は対称である』といわれているけれどちょっとおかしいんじゃないか?対称であるとしたら、物質の対称に反物質が同じだけあるはずだ」と彼らは言い始めました。物質と反物質がぶつかり合うとすごい光になって消えてしまい、後には何も残らないはずという理屈です。そして物理学者はさらに研究をして、物質は反物質よりも10億分の1だけたくさんあるから、ぶつかってもほんの少しの燃えカスが残る。だから物質があると解き明かしました。凄いですね。
でもまだまだよく分かっていません。宇宙の中では物質はほんの5パーセント程度しか存在しないそうです。あとは暗黒物質・エネルギー。いずれにしても私たちは宇宙の「燃えカス」、つまり「奇跡の存在」なのです。人生は尊いですね。しっかり大事にして生きていきたいですね。
CO2に罪はない
問題は怠け者の人間にある
分子は原子がくっ付き合ってできています。今、ワルモノにされている二酸化炭素(CO2)は、炭素に酸素2つがくっ付いたものです。地球の貴重な財産である石油や石炭を人間が燃やしてエネルギーを取ってCO2と水に変えています。この安易な生き方が温室効果をもたらし地球温暖化につながっているのです。CO2に罪はなく、怠け者の人間が、環境のことを考えず、私利私欲にかられて愚かなことをやっているところに問題があるのです。
自然の仕組みを「サイエンス」で理解して、知識を整理して蓄え、活用して生きていくことが大切です。学校だけではなく、地域や家庭でしっかりと教育をしなくてはいけません。サイエンスは面白いだけでなく、健やかで真っ当な人生観、自然観を持って100年生きていくためのもので、決してお金儲けのためのものではありません。
医薬品の健全化に資する
研究が認められた
サイエンティストの一人である私の興味は、原子と分子をベースにした「化学」。これは地球圏における物質とエネルギーの変換に関わる科学です。分子には右と左に関係があるものが多い。そして皆さんの命は左右の分子に依存していると言っても間違いではありません。右と左は自然界でも社会においても、とても大切なことです。相手があると大問題になる。皆さんの身のまわりにもあってハサミも定規も、トランプ、野球のグローブ、ゴルフクラブ…何にでも右利き用と左利き用があります。自分の顔を鏡で見ると左右が逆です。鏡の中の自分はこの世の中に出て来ても生きていけません。食べものをまったく消化できないからです。
昔は左右分子の区別は生き物にしかできないとされていたのですが、私は化学の力を使って人工的に右と左を作り分ける技術に挑戦して成功しました。
お母さん、お父さん方の真剣な顔を見ていて、話がむずかしくなってきました。ごめんなさい。化学変化を起こす機能を持っている金属の周りに左右を区別できる有機化合物をつけ、これを触媒に使って働いてもらって右と左を作ります。大きな反響を呼びました。20世紀半ばに医薬品は右と左を50対50で混ぜて薬を作っていた結果、起きたのがサリドマイド薬害です。右の薬品は秀れた催眠剤ですが、一方で左の薬品は健康な身体を傷つけました。結果的に1994年、FDA(アメリカ食品医薬品局)が「右か左かきちんと作れ」と指針を出し、医薬の健全化を図りました。そこに私の研究成果が使われ、世界の多くの企業の努力でいろいろな安全な製品ができました。社会的に貢献したことが認められ2001年にノーベル化学賞を頂きました。
子どもたちにこの国と社会の未来を託します
今の社会を見ていると、いつの間にか誰もが「お金」や「自分」のことばかり考えて生きているように思えます。行き当たりばったりで、自分がどう在りたいのかを示さず、政治も国としての誇りを失っています。このままでは多くの国が日本を信頼できなくなり、無視するようになってしまいます。
皆さんは100歳まで心身ともに健やかに生きる力を身につけて、たくましく育ってください。お父さん、お母さん、大切なことは基本の中にあります。末梢の細かいことにばかりこだわらないでください。私はこの国や社会の未来を子どもたちに託したいと思っています。
野依 良治(のより りょうじ)
科学技術振興機構研究開発戦略センターセンター長
1938年兵庫県生まれ。
京都大学大学院修士課程修了、工学博士。
名古屋大学教授を経て、理化学研究所理事長などを歴任。
2000年文化勲章受章、2001年ノーベル化学賞受賞。