11月号
芦屋・翠ヶ丘について
芦屋翠ヶ丘に暮らす
翠ヶ丘とその周辺は古くから開けた文化的先進地域だった。
古代は平安貴族たちが、近世は産業の繁栄が彩るこのエリアの歴史を紹介しよう。
現在の翠ヶ丘一帯は早くから開けたようで、浜側の打出小槌遺跡からは約2万年前のナイフ型石器が出土し、山側の朝日ヶ丘には縄文時代前期の遺跡が発見されている。
翠ヶ丘のシンボル、阿保親王塚古墳は4世紀前半に築かれたと推定される古墳。実際の被葬者は阿保親王ではなく、4世紀前半にこの地を治めた豪族であるという説が有力だ。現状は直径36m、高さ3mの円墳を四角い堀が囲んでいるが、これは江戸時代に長州藩が改修したもので、本来は前方後円墳だったといわれている。大陸からもたらされた副葬品の銅鏡も出土している。阿保親王塚古墳の近隣には金津山古墳、打出小槌古墳が位置し、南隣の楠町では銅鐸も出土しており、太古から文化度が高いところだったようだ。
平安時代になると莵原郡に属し、平安貴族たちの別荘地として脚光を浴びたようだ。阿保親王や在原業平が所領したと言い伝えられ、伊勢物語の舞台にもなっている。
南北朝時代には、この丘の麓で足利尊氏と楠木正成が争った打出合戦や、足利尊氏とその弟の直義が戦った打出浜合戦が勃発。それはここが交通の要衝だったからだ。
その地の利を生かして発展したのが打出村だ。ここは京からの西国街道がはじめて海に「打ち出で」る場所であるとともに、本街道と浜街道が分岐する地点で、特に江戸期に宿場や農業などで繁栄。一帯は田畑が広がり、米や麦、綿や菜種などが栽培され、翠ヶ丘はその後背の里山として機能。農業用のため池もつくられ、池の堤を補強するために松が植えられた。現在、池はほとんど開発で埋め立てられたが、老松にその歴史が垣間見える。
明治38年(1905)に阪神が開業、打出駅ができると大阪の郊外住宅地として発展、阪神間モダニズムの一翼を担う豪邸があらわれるように。現在もその良好な環境は守られ、その名の通り緑あふれる閑静な住宅地となっている。