8月号
兵庫ゆかりの伝説浮世絵 第四十二回
中右 瑛
悲劇の幼帝 安徳帝の一の谷御座所
山陽電鉄・須磨浦公園駅の東・緑の塔から北へ上りその高台の一角に住宅が参集し、その中心部に一の谷公園がある。そこに、安徳帝社(神戸市須磨区一の谷町2)があり、安徳帝内裏跡伝説地と伝わっている。
その昔、平家方に奉じたために都を追われた幼き安徳帝が、平家一族や母・健礼門院と共に西海を流浪し、一の谷合戦の直前この高台の仮屋に身をひそめていた…と伝えられている内裏跡である。この社には、安徳帝、それに海の神様と崇められている竜神が祀られている。
安徳帝は清盛の娘・平徳子と高倉天皇との第一の皇子。徳子は清盛が仕組んだ政略結婚のため七歳年少の高倉天皇に入内し、治承二年(1178)安徳帝を産んだ。入内して八年目、待ちに待った慶事だった。
安徳帝は二歳のときに天皇に即位、これも祖父・清盛の強引な政略だった。が、その翌年、高倉帝が崩御。そして清盛の突然の死、と悲運が続き、母子は激動の嵐に立たされた。徳子は建礼門院と称す。
その後、安徳帝は母方の平家方に奉じたため、平家一門の都落ちとともに流浪の旅が始まり、福原、大宰府と落ち延び、一の谷でも一時の仮住まいだった。
一の谷合戦の敗北は、やがて平家の滅亡につながる。続く四国屋島での敗退。戦場は長門・壇ノ浦に移され、文治元年(1185)三月二十四日、源平合戦最後の決戦がきって落とされた。
豪勇で名高い平家の武将・能登守教経らの活躍も虚しく、平家の勝ち目はなかった。平家の敗北を悟った清盛の正室・二位の尼は
「女なりとも敵の手にはかかりませぬ。帝のお供をいたします」
孫の安徳帝を抱きしめ、
「浪の下にも都はさぶろうぞ…」
と、帝をやさしく諭しながら海に身を投じた。神霊、宝剣など三種神器と共に・・・。供の女人たちも互いに手をつなぎ合い、あるいはおもしを抱いて次々と入水し、海の藻屑と消え果ててしまった。
安徳帝と二位の尼の入水は、最も悲しい平家終焉のドラマとして、後世の人々の涙を誘った。安徳帝は、朝廷の影の実力者・後白河法皇と武家の権力者・清盛とのはざまにあって、その権力闘争に巻き込まれ、平家の運命と共に散ってしまったのである。時に八歳、短い生涯だった。建礼門院も後を追って投身したが、奇しくも敵方の義経に助けられ、都に連れ戻された。やがて尼となり、京の大原寂光院で一族の菩提を弔う。
■中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。