2月号
神戸鉄人伝(こうべくろがねびとでん) 第62回
日本画家
福羽 弘子(ふくば ひろこ)さん
「日本画は美人画や花鳥風月と決まっているわけではありません。表現はまったく自由です」と語るのは、兵庫県日本画家連盟に籍を置き、理事兼事務局長として多忙な日々を送る福羽弘子さん。正確な描写力と的確な表現に、若い頃の研鑚と今日までにこなした仕事がうかがえます。一見油彩画のような人物画から淡い色調の果実や草花までを、見事に描き分ける福羽さんにお話をうかがいました。
―ご実家は、元町の老舗美容室だそうですね。
そうなんですが、私自身は子どもの頃から髪の毛を切ったり、パーマをあてたりということに興味が無くて…。何より人と接するより、絵を描いている方が好きでしたから。それで妹が美容室を継ぎ、母の死後は私が経理を担当してきました。でもそれもそろそろ、引退しようと思っています。
―絵がお好きだったのですか?
うちの店の前身は花隈にあったのですが、義理の祖父が庭にいろいろな花を植えていたら、村上華岳がそれをスケッチに来ていたそうです。何枚か絵をもらったらしいですが、残念ながら蔵の火事で焼失しました。でもそんなことがあったからか、祖父は私が絵を描くことをとても喜んで、こっそりお小遣いをくれたりして…ヨコシマな理由で私は日本画に没頭していきました。
―そして美大へ進まれたのですね。
東京の女子美術大学に進みました。卒業後はアニメの仕事がしたかったんですが、当時アニメ製作会社は女性を採用しなかった。残業や徹夜が当たり前の業界には、女性の席は無い時代でした。母校の女子美は女性の自立を重んじる校風でしたから、就職の男女格差はショックでしたね。それで神戸へ戻って、日本画を描き続けようと決めたんです。
―結婚や子育ての間も制作を?
出産からしばらくの間ブランクはあるものの、基本的には絵筆を離しませんでした。子どもが幼稚園に入ったのを機に自宅で絵画教室を始めたのですが、教室の子どもたちが絵画展で入選して評判になると、今度はおかあさん達がムキになってしまって…。絵の初心から離れていくのが嫌で、思い切って教室を閉めて自らの制作を再スタートしました。
―画業再開はどのように?
幼稚園時代から絵を見ていただいていた先生の紹介で、兵庫県日本画家連盟の仲間に加えていただきました。山田美耶子理事長には、この時からお世話になっています。西日本は京都画壇中心ですから私は毛色が違うのですが、なぜか事務局のお手伝いをさせていただくことになりました。
―もう長く事務局を担っておられます。
東京で学んだ私が兵庫県の団体のお世話を仰せつかって、正直「いいんだろうか?」と思いましたが…。以来ずっと、美術展のお世話に追われています。神戸ビエンナーレなど、発表の機会も増えましたしね。個人では元町商店街のイベント「元町の芸術家展」にも毎回出品していますし、まあ忙しい毎日です。
―後輩にアドバイスをするなら?
そうですね、何事も経験と思って、団体展にも出品してみるといいですよ。やってみないことには時代の傾向も読めないし、出品にどれほどの労力と費用が掛かるかもわからないですから。描き続けるためには、何よりまず生活の基盤を持つこと、そして人とのつながりを大切にすることです。(2014年12月22日取材)
日本画の世界に復帰を果たした後は、ひたむきに兵庫の日本画を支えてきた福羽さん。画業はまだまだこれから、という感じでした。
とみさわ かよの
神戸のまちとそこに生きる人々を剪画(切り絵)で描き続けている。平成25年度神戸市文化奨励賞、平成25年度半どんの会及川記念芸術文化奨励賞受賞。神戸市出身・在住。日本剪画協会会員・認定講師、神戸芸術文化会議会員、神戸新聞文化センター講師。