11月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~(79)前編
佐藤愛子
失われゆく故郷への想い…甲子園、神戸で過ごした若き日の記憶
神戸で送った青春
1969年、『戦いすんで日が暮れて』で直木賞を、2000年、『血脈』で菊池寛賞を受賞するなど長年にわたり数々のベストセラー小説やエッセイを手掛けた作家、佐藤愛子(1923~2026年)が、今年4月に亡くなった。102歳だった。
作家時代の長くを東京で過ごし、都内で亡くなったが、彼女が大阪市住吉区帝塚山で生まれ、幼児期に現在の西宮市へ引っ越し、神戸の甲南高等女学校に通い、青春時代を神戸で過ごした〝神戸っ子〟であったことを、ご存じだろうか。
《私のふるさとは兵庫県の「鳴尾」である。私がそこにいた頃は「武庫郡鳴尾村字西畑といった。だが今はそこは西宮市という》
人気シリーズのエッセイ『これが佐藤愛子だ 二』(2002年、集英社)の冒頭、「失われゆくふるさと」というタイトルのエッセイのなかで、西宮で暮らしていた当時の多感な少女時代の話がこんなふうに綴られている。
《私の育った家は阪神電車の甲子園駅の、駅から二、三分のところにあった。大阪から阪神電車で帰ってくると、車掌が、
「こーしえーん、こーしえーん」
と眠たげな声をはり上げるあたりから、青く盛り上がった松林が見え、その松林の松よりも高く、私の家の三階が見えたものだった》
彼女の実家の最寄り駅は阪神電車の甲子園駅。甲子園球場の近くで暮らしていたのだ。
大正時代に生まれた佐藤は、昭和37年に開戦した第二次世界大戦を、この甲子園球場の近くにあった自宅で体験している。
《それは戦争が負けいくさになりはじめた頃のことだ。大鉄傘は取り去られ、兵器になるのだった。私の近くの家でも鉄の門扉を供出させられた家があった。私の家では青銅の門燈の笠を供出した。私の暗澹とした青春時代はそのへんから始まっていたのだ》
厳しい戦時中の思い出をこう綴る一方で、のどかで淡い学生時代の思い出も明かされる。
《いったいあの頃の私たちは、何をそんなに話すことがあったのだろう。登校も一緒、学校でもいつも一緒にいて、それでもまだ話し足りないで道草をくった。
たっぷり道草をくうために、甲子園より二駅西の西宮駅でわざわざ下車し、市場で饅頭を買って用意している。私たちはプラタナスの下を海へ向って歩いた。誰もいない砂浜に坐って用意の饅頭を食べたこともあるし、水族館の中で魚を見ながら食べたこともある》
また、宝塚歌劇団に憧れていた神戸の女子高生らしい思い出も、こんなふうに記される。
《女学校時代、私の友達に宝塚狂がいた。当時の女学生には宝塚が唯一の娯楽であったので、宝塚大劇場はいつも満員。よい席に坐るためには、暁の四時から行って行列に並ばなければならないのであった》
幼少期から女学生時代の佐藤の思いを綴ったエッセイを読めば、お転婆で男勝りで快活な佐藤の性格は、兵庫で過ごしたこの時代に培われたものであることが分かる。
ふるさと〝甲子園〟への思い
佐藤が少女時代を過ごした〝ふるさと〟を去る日がやって来る。
《私が嫁入りをするのを待っていたように、父母は慌ただしく家財道具を処分して、二十年住み馴れた鳴尾を離れたのであった。
私はふるさとへ行くたびに、その家の前に立ってみる。その家は今はある大きな農機具の会社の社長さんの住居になっている》
佐藤は結婚して鳴尾を離れた後も、自分が愛したふるさとをたびたび訪れていた。
だが、その変わり果てた姿をこんな風に嘆いてもいた。
《今はもう私は海へ行くのが怖ろしい。
海はあまりに無残な姿となり果てた。白砂青松と謳われた瀬戸内海の海を、ふるさとを離れてからの私は、どんなに人に自慢して語ったことだったろう。
「あの海岸は、こんな、関東の海岸みたいな、黒い、汚い、ゴロゴロ石の海岸やないのよ」
私は何度もいった。
「波の穏やかさが関東とちがう……それに遠浅で……」
だが今は海はもう、なくなってしまった。そこは荒々しいコンクリートの防波堤がつづいているばかりで、波は黒く濁り、油やゴミを浮かべて悪臭を放っている》
彼女が10歳の頃、自宅近くに、よく通っていた「甲子園」という名のお気に入りの飲食店があったという。
《ある年の夏、私はその店の前を通り、殆ど四十年ぶりでおばさんと会った。おばさんは店先でコカコーラを売っていたが、私が声をかけるより早く、私を見つけ、一瞬、ポカンと口を開けてから、叫んだ。
「まあ、佐藤さんのお嬢ちゃん!」
私は十歳の少女に立ち返り、
「おばさん!」
と叫んで絶句した。
そのとき私は、ふるさとはここに、そっくりそのまま残っていた、と思った。私の眼に涙が溢れた》
大正から令和に至る一世紀をしたたかに生き、第二次世界大戦下の貧困から戦後の日本の復興の様子をつぶさに見続け、その姿を小説やエッセイなどで詳細に活字で刻みつけてきた日本を代表する作家がまた、一人、この世を去った。
=続く。
(戸津井康之)












