2月号
兵庫ゆかりの伝説浮世絵 第二十四回
中右 瑛
忠臣蔵異聞
義士間瀬久太夫の遺児・定八の悲運
討ち入り後、赤穂浪士一行は泉岳寺にある亡君・浅野内匠頭の墓前に吉良上野介の首を供え、仇討(あだうち)を報告、その後、富森助左衛門、吉田忠左衛門の両氏が大目付・仙石伯耆守(せんごくほうきのかみ)に討ち入りを自訴し、浪士一行は細川、松平、毛利、水野の四家に分監視された。
明けて元禄十六年(1703)、二月四日、大評定の判決は下った。浪士四十六名は全員切腹。これは武士の面目を保つための処置。一方、吉良の当主義周は領地を没収され、信州高島藩諏訪安芸守へとお預けとなる。法治国家である限り、事件を起こした張本人・浅野内匠頭を罪人とし、その報復として徒党を組んで討ち入った者を罰して全員切腹というのは、幕府としては学識者を交えて考えあぐねた判決だった。
この判決に対しての解釈は、赤穂浪士が仇討と称して、集団テロ事件を引き起こしたことは、人心を惑わす暴挙であり、幕府への挑戦でもある。全員死刑(打ち首)となっても致し方なし。切腹は武士の面目を立てた最善の方法だったのだ。
しかし、被害者である仇討先の吉良家後継者の義周まで罪人としたのは、不可解である。これは「松の廊下事件」における浅野切腹という片手落ちの判決が「討ち入り事件」にまで発展した失策に、今度は喧嘩両成敗としたのであろう。
幕府はお預けの四家に目付を派遣し浪士に切腹を命じ、即日執行され、浪士の遺骸は泉岳寺に埋葬された。
赤穂浪士は重罪人であるので、罪は直系の男子にも及ぶ。ただし、僧籍に入った者は免除。妻や子女はお構いなし。
二月六日、遺児(男)十九名は流刑(島流し)を宣告され、内十五歳以上の四名は大島へ配流された。十五歳未満の男子は十五歳に達した者から配流されるというもの。
配流の四名は、中村勘助長男・忠三郎(15)。間瀬久太夫(ませきゅうだゆう)次男・定八(20)。村松長兵衛次男・政右衛門(23)。吉田忠左衛門次男・伝内(25)。各人、地方から呼び寄せられ江戸奉行所に収容されていた四名は霊岸島の船着場に連れてこられ、船は伊豆大島へ向け出港した。四名は丸坊主にされ、刀は取り上げられ、羽織・袴は着用せず、着流しで素足に藁草履。まるで浮浪者のような姿。武士の誇りもあったものではない。親は義士として面目を保ったが、そのかげで犠牲になったのは罪もない遺児たちだった。
大島での流人生活は厳しかった。病弱だった間瀬定八は、母や家族が病弱を理由に赦免を願い出たが取り上げられることなく二年後の宝永二(1705)年、同地で寂しく死んだ。二十二歳だった。翌宝永三年、先の将軍・四代徳川家綱の三十七回忌にあたり、大島に残っていた三人は出家を条件に赦免され、郷里に帰ることが許された。
悲運な間瀬定八。父・間瀬久太夫は目立たない地味な武士だが赤穂藩の長老で実直、誠実な人柄で、大目付を司るほどの高い信頼を得ていた。住居は赤穂城内の塩屋門の近くにあり、開城にあたって大石を助け、後も残務処理に奔走。一家は播州加東郡へと移った。久太夫は長男・孫九郎と共に討ち入り武士の美学を全うしたが、次男の定八は遺児の中で最も不運な男だった。
討ち入り決行のため江戸へ向かう直前、久太夫は大石内蔵助とと共に明石の人麿山月照寺を訪れ「仇討成就祈願の梅」を密かに植樹した。今も「八つ房の梅」として同寺の一隅に残っている。
■中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。