11月号
阿保親王と芦屋
芦屋翠ヶ丘に暮らす
翠ヶ丘の「翠」とは、阿保親王の御陵とされる親王塚を包む森に生い茂る
翠松に由来するともいわれている。一体、阿保親王とはどんな人物なのだろう。
阿保親王は平安遷都の2年前の延暦11年(792)に、平城(へいぜい)天皇の第一皇子として生誕。桓武天皇の孫にあたり、在原業平の父でもある。本来なら天皇になるべき人物であったが、不運にも平城天皇が寵愛していた藤原薬子(くすこ)が平城京の再遷都を画策し破れた薬子の変(810年)に関わったとされて太宰府に流された。その後、弘仁15年(824)に叔父にあたる淳和天皇の恩詔により帰京を許され、宮内卿や兵部卿などを歴任。承和9年(842)の承和の変の際には弾正尹(だんじょういん)(風紀取締の長官)として謀反を察知して未然に防いだという功績をあげたが、同年に打出にて51歳で薨去したと伝えられる。
そんな阿保親王には、芦屋周辺を所領地にしたという言い伝えがある。延暦4年(785)に淀川と神崎川を繋ぐ水路が開削されて京から尼崎へ船で出るルートが開かれると、風光明媚な芦屋の地は「都心に一番近いシーリゾート」として貴族たちに愛顧されるようになったが、阿保親王もまたここに別邸を構えていたのであろう。阪神間モダニズムも都心に近い別荘地として評価されたことが発展の契機となったが、ある意味親王は千年以上時代を先取りしていたのだ。
親王はこの地とこの土地の人々を愛し、親王塚に黄金一千枚と金のかわら一万枚を埋めて飢饉の際には掘り出して穀物と換えるようにと伝えたという伝説も残っている。また、当時の芦屋は今より海岸線が内陸にあり親王塚は海からも望めたが、その沖を行く船は帆を下げて親王に敬意を表したともいわれている。
戦国の西の雄、毛利氏は大江音人(おとひと)の末裔にあたるが、(一説によると)音人の実父とされる阿保親王を祖と仰ぎ、江戸時代に長州藩が親王塚の大改修をおこなっている。
一方で、阿保親王が芦屋一帯を所領した、打出で没したという記録は正史にみられない。親王とこの地を結ぶのは伝説や伝承による部分が大きいが、今なお芦屋の人々は阿保親王に親しみを覚えている。