11月号
連載コラム 「第二のプレイボール」|Vol.21
Vol.21
「気迫のこもった投球でマウンドに立ち続けた虎戦士・元阪神タイガース田村勤さん」
文・写真/岡力<コラムニスト>
引退後にさまざまな世界で活躍する元プロ野球選手の「今」をご紹介します。
伝統の一戦で湧く甲子園球場。勝敗を左右する絶体絶命のピンチに阪神ベンチが動く。「抑えないと食べていけない」。かつて、セ・リーグを代表する強打者相手にワンポイントで起用され勝負に挑んだ投手がいる。
田村勤さんは、静岡県榛原郡の出身。小学5年で野球を始め、中学時代は県大会で活躍。
地元の島田高校では、2年でベンチ入りしプロのスカウトも注目する存在となった。その後、駒澤大学へ進学。東都大学リーグで登板を重ねたがコントロールに悩み頭打ちにあう。そんな時、監督の助言もあり投球フォームを変更する事となった。試行錯誤の末、ボールを持つ腕がグランドと平行になるサイドスロー投法が完成。後に自身のトレードマークとなる。
大学卒業後は、プロ入りを意識し名門・本田技研に入社。1990年、都市対抗野球大会に出場し阪神タイガースよりドラフト4位で指名を受け入団した。即戦力として1年目から50試合に登板。しかし、この頃から左肘に痛みを感じるようになり現役時代は故障に悩まされ続けた。だが、入団翌年には、22セーブをマーク。以後、ショートリリーフとして活躍した。「現役時代は、にっちもさっちもいかない状況で起用され選手冥利に尽きる。ビッグネームの打者を抑えることがステータスだった」と振り返る。
2002年に現役を引退。2005年より甲子園からほど近い場所で「田村整骨院」を開業した。現在、診療の傍ら子供を対象に野球教室を実施している。「自分がケガで悩みましたから患者さんの気持ちになれます。常に評価される点でも野球と通ずるところがあります。暗黒と呼ばれた時代に足を運んでくれた阪神ファンの方に感謝します」と笑顔で語る田村さん。今日も患者さんを相手に気迫のこもった施術を行っている。
■田村整骨院
兵庫県西宮市市庭町6-6 井岡ビル2階