12月号
触媒のうた 10
―宮崎修二朗翁の話をもとに―
出石アカル
題字 ・ 六車明峰
この秋、わたしの店「喫茶・輪」で詩書展なるものを開いた。
書家が書いたもの、詩人自身が書いたものなど約30点。富田砕花氏の生原稿(草稿)や杉山平一氏の詩書も飾った。
で、案内状を杉山氏にも送っていた。氏はこの秋97歳になられた日本詩壇の最長老詩人で、人気も高い人だ。大学で教えておられた時には、そのゼミは希望者が多くいつも抽選だったと聞く。
杉山氏には10年前に一度ご来店頂いたことはあるが、今回は無理だろうと思っていた。ところが、二日目に電話があり、「これから行きます」と。
車の乗り降りも難儀なお身体でよくぞ来て下さったものだ。
色々お話しさせて頂きながら、あるものをお見せした。わたしが所蔵する、戦後著名だった作家や詩人の直筆ハガキである。石川達三、石坂洋次郎、井伏鱒二、三島由紀夫など数十名の文人の直筆書簡だ。中に江戸川乱歩や横溝正史も。
因みにこれらがわたしの所にあることについては、本誌2009年1月号に「文人書簡」と題して詳しく書いた。すべて、宮翁さんこと宮崎修二朗氏からわたしに託されたものであると。
「これは貴重なハガキですねえ」と興味深そうに眺めておられる氏に一つ質問しました。
「江戸川乱歩にお会いになられたことは?」
「あります。関西探偵作家クラブに来て頂いてお話を伺いました」
杉山氏が戦後の一時期、神戸を本拠とする「関西探偵作家クラブ」に所属しておられたことは、宮翁さんの著書『神戸文学史夜話』(昭和39年刊)でも触れられている。しかし、杉山氏の数多くの著書に記された略歴にはこのことは載っていない。少なくとも私が架蔵するものの中にはない。知る人ぞ知ることなのであろう。
だが、書かれていたのだ。昭和23年に出た童話集『背たかクラブ』に探偵ものが載っている。それを江戸川乱歩が「探偵童話の試み面白く」と評価したのだと。
と、ここまでが前ぶれである。
宮翁さんに、「杉山先生は関西探偵作家クラブで江戸川乱歩にお会いになったことがあるそうです」とお話しすると、
「えっ?だったら僕、知ってる筈だがなあ。大正末期に一度来て、新開地の薬局に勤めていた横溝正史との接点も出来るんですがね。戦後に来たのは知らないなあ」
宮翁さん、納得いかない顔で昔に想いを馳せる。
「関西探偵作家クラブの、僕は会員ではなかったのでね、恥ずかしい話ですが、例会の度に部屋の隅っこで「聞かせて下さい」と言って小さくなって取材していました。ある時、会が終わって、みんなが「お茶に行こう」と言って喫茶店に入って行ったんですよ。わたしもついて行きました。流れでお勘定は僕が出さなきゃならない、けど持ちあわせがなくて困りました。それで、店の人にそっと事情を話して、後で届けたというようなことがありましたねえ。いや、神戸新聞の時ではありません。取材費をくれない国際新聞の時でした。新聞社って新人なんかには目もくれない所です」
若き宮翁さん、苦労しながら精力的に仕事をしておられたのだ。
さて、SF小説の話である。
最近出た本に『星新一』(最相葉月“神戸出身”)というのがある。ショートショートで知られたSF作家、有名な星製薬の御曹司、星新一の評伝である。中に興味ある記述が、
「矢野の渡米をいち早く報じた神戸新聞学芸部の記者、宮崎修二朗は終戦後まもなく共通の知人の画家の紹介で矢野と知り合った。矢野は当時、阪神電鉄魚崎駅前にある太平住宅に住み、駅の横手の掘っ建て小屋を借りて写真店を営んでおり、太平住宅渉外係の肩書きをもっていた。仕事の合間にアメリカのペーパーバックを見つけてきては盛んに翻訳していた。」
ここに出てくる矢野徹は後の日本のSF小説界に大きな影響を及ぼす中心人物。そして、神戸新聞の若き記者が宮翁さん。
この話、わたしも以前お聞きしていた。
「元々探偵小説と言ってましたが、後に推理小説と呼ぶようになりました。そして神戸が、日本の推理小説に大きな影響を与えたのですよ。神戸港にアメリカの船がしょっちゅう入って来る。すると船員が街にあふれる、その船員たちが船中で読んだペーパーバックが、街の古本屋に流れる。その中にSFが当時は多かったんです。それを矢野徹が盛んに翻訳してたわけです。それで彼は、アメリカの作家たちに手紙を出したりして交流してました。そのうち、アメリカのアッカーマンという作家から「世界SF大会」に出席しないかとの誘いを受けて、僕に、宮さん、一緒に行きましょうと。」
つづく
■出石アカル(いずし・あかる)
一九四三年兵庫県生まれ。「風媒花」「火曜日」同人。兵庫県現代詩協会会員。詩集「コーヒーカップの耳」(編集工房ノア刊)にて、二〇〇二年度第三十一回ブルーメール賞文学部門受賞。喫茶店《輪》のマスター。