8月号
音楽のあるまち♬10 ジャズはいつも人々を「動きたくさせる」音楽
ロイヤルフラッシュ・ジャズバンド
バンジョープレーヤー兼リーダー
大森 重志 さん
結成35年を迎えた「ロイヤルフラッシュ・ジャズバンド」が演奏するディキシーランド・ジャズ。踊り出したくなる楽しいジャズについてお聞きしました。
―ディキシーランド・ジャズのルーツは。
アメリカ南部ルイジアナ州ニューオリンズの街をフランスが統治していた当時、綿畑の労働力確保のため、アフリカから黒人奴隷が連れて来られました。彼らは農園の唄やワークソングを歌いながら重労働に耐え、ロンギング・ソング(憧れの歌)を歌いながら家路につきました。入ることさえ許されない教会の讃美歌のメロディーを聞き、自分たちの唄「ニグロスピリチュアル」を誕生させました。
―そして全米、世界へと広がっていくのですね。
南北戦争後、解放された黒人たちが南軍の軍楽隊から大量に放出された楽器を手にすると、みるみる上達し、白人たちをとりこにしていきます。音楽教育など一切受けていない黒人たちが才能を発揮したのです。19世紀末に誕生した赤線歓楽街「紅灯街」で、ダンスのために盛んに演奏するようになると、ジャズの原型ができ、「ディキシーランド・ジャズ」として多くのミュージシャンやファンを生み出します。1917年、紅灯街が閉鎖されるとミュージシャンたちはミシシッピ川を北上しアメリカ全土へ、中でもシカゴに優れた演奏家が集まり、さらに世界にジャズが広がっていきます。
―大森さんがディキシーランド・ジャズとバンジョーに出会ったのは。
1950年代、ジャズの歴史の中では「ニューオリンズリバイバル」と呼ばれる時代、私が学生のころです。ラジオ神戸(現・ラジオ関西)で「ディキシーランド・ジャズが大好き」なプロデューサー末広光夫さんが選んだ曲だけを流す番組を聴きました。ジョージ・ルイスが黒人たちの哀しみをのせて吹く切ないクラリネット、ローレンズ・マレロの単純だけど聴く人を熱狂させる魅力的なバンジョー。そのころギターやウクレレを弾いていた私は「弾いてみよう!」と、大阪の楽器店で進駐軍が置いて帰った4弦バンジョーを手に入れました。ところが、周りに弾いている人もいない、演奏読本も全くなくて、チューニングすら分からない。ほぼ独学で弾き始めました。
―そこから人前で披露するほどの腕前になったのですね!
良い先輩に恵まれたからです。三宮などのライブハウスでピアノを演奏しておられた中川宗和さんに、「バンジョーを弾いてみないか?」と声をかけられ、「まだまだ、そんな…」と断ろうとしたのですが、「大丈夫、間違っても誰も気付かへん」と(笑)。そして、外国人倶楽部や中川さんが経営する「ディキシーランド」などで演奏する機会をいただくことができたのです。彼がいなければ続けてこられたかどうか分かりませんね。
―そして、1983年にバンドを結成されたのですね。
中川さんはピアノの演奏もさることながら、人を楽しませる天才でしたが、残念なことに早く亡くなられてしまいました。そこで、ディキシーランド・ジャズ好き7人が集まり「ロイヤルフラッシュ・ジャズバンド」を結成しました。
―仕事をしながら音楽活動も続けてこられたのですね。
私が壽屋(現・サントリーホールディングス㈱)に入社した当時の社長・佐治敬三さんは新しいことにどんどん挑戦しようという考えをもっておられました。仕事でも、それまでとは全く違う私の新しいデザインを「これはおもしろい!」と直接採用していただいたこともありました。音楽が大好きな方で、ご自身がパーティーで歌われる時には伴奏を頼まれたりして、「音楽でもどんどん挑戦しろ、ただし仕事もしっかりやれ」と。懐の広い人格者に恵まれたことも音楽を続けてこられた理由だと思っています。
―大森さんにとってジャズとは、そして今後は。
心躍る存在です。子どもは4ビートの音楽を聴くと踊り出します。海外のジャズフェスティバルでも演奏する機会があるのですが、お客さんのノリが全然違って、食事をしていても放ったらかして踊り出す(笑)。シャイな日本人が、つい動きたくなるような演奏を、皆さんにお届けできたらいいなと思っています。
―楽しい音楽でバンド結成40周年に向かってください!ありがとうございました。