10月号
触媒のうた 32
―宮崎修二朗翁の話をもとに―
出石アカル
題字 ・ 六車明峰
最近出た本『周五郎伝』(白水社・斎藤愼爾)にこんな個所がある。
―木村はこの「歴史と人物」に発表された「山本周五郎の“永遠の女性”―文豪の青春に大きな影響を与えた“須磨寺夫人”」と題する文章を読んで驚喜し、〈宮崎レポートは、山本周五郎研究にとって、もっとも重要な資料のひとつである〉とまで断言する。―
ここでいう木村とは、山本周五郎研究の第一人者、木村久邇典のこと。宮崎とはもちろん宮崎修二朗翁である。
「久邇典さんとはお会いしたことがあります。須磨寺夫人、木村じゅんさんにお会わせしましたが、誠実なお人柄の方でしたねえ」
“須磨寺夫人”とは、文豪、山本周五郎の出世作『須磨寺附近』に登場する人妻のことである。それが木村じゅんさんなのだ。
宮崎翁がじゅんさんにお会いになったいきさつ。
「偶然なんですよ。宝塚の公民館からの依頼で、内容は忘れましたがおしゃべりに行きました。終わって、受講者のみなさんがもっともっと続きをやって欲しいと。で、みなさんがお金を出し合う形で、その後も勉強会が続きました。その中のお一人に高村さんという女性がおられまして、何かの話の時に、“須磨寺夫人”にお茶を習っているとおっしゃいました。ぼく驚いて、お願いして紹介してもらったんです。宝塚の清荒神の近くに息子さんとお住まいでしたが、まさか、そんな近くにご健在だとは思ってもいませんでした。気持ち良く会って下さいました。もう80歳前後になっておられましたが、モデルにしてもいいようなおきれいな方でしたねえ」
昭和51年二月四日付けの神戸新聞夕刊に載った「山本周五郎の“神戸時代”明るみに」という記事は、その時のインタビューをもとにした宮崎翁によるもの。その三か月後に「歴史と人物」誌に発表されたのが先に上げた「山本周五郎の“永遠の女性”…」であり、それを読んで驚喜したのが周五郎研究の第一人者、木村久禰典だったというわけ。
実はこの木村じゅんさんの話、宮崎翁の『環状彷徨』(コーベブックス)に「周五郎の須磨」と題されて載っている。しかしそれは極めてあっさりと文学的事実が書かれているだけだ。わたしはもう少しお尋ねしてみた。
「本当はぼくじゃなしに足立さんにやってもらうべきだったんですがね…」
この足立さんとは、わたしが生涯尊敬する足立巻一先生のことである。
「…そんなわけでぼくがやらざるを得なかったんです。足立さんも会いたがっておられたらしくて悪いことをしました」
―足立さんに悪いこと…―の意味。
足立先生は詩人で作家だった人だが、『山本周五郎の世界』(信評社・共著)という著書もある周五郎研究家でもあった。宮崎翁にしてみれば浅からぬおつき合いのこともあり、多少抜け駆けのような後ろめたさをお持ちになったのでしょう。
「あの本(『周五郎伝』)にも載っている、わたしのリポートからの転載、―弟の達雄が亡くなったときお悔み状いただいて…。戦後、主人が亡くなり、長男もソ連から帰らず寂しかったとき一度、お手紙さし上げました。…―の件ですが、そこには書きませんでしたが、どうやら生活に行き詰まっておられたころに周五郎に合力(援助)を頼まれたらしいんですよ」
ところが周五郎はそれを断った様子だったと。これについて、じゅんさんは言葉を濁されたということだが、宮崎翁、その鋭い記者の勘で悟られたらしい。しかし、それ以上突っ込んでの質問をするのは忍びなかったと。ここのところ、もしハッキリすれば、周五郎研究の色どりが多少変わったものになったのかも知れない。
宮崎翁のこの触媒仕事の話をお聞きしてわたし、久しぶりに須磨寺にお参りしてきました。
前はたしか足立巻一先生の葬儀の時だったからもう28年ぶりになる。あの司馬遼太郎さんが葬儀委員長。一五〇〇人といわれた参列者であふれんばかりだった境内の様子はすっかり変わり、美しく整えられていた。
しかし変わらず建っていたのが、周五郎の文学碑。傍らの石碑には足立先生の文章による説明文が彫られている。
―『須磨寺附近』は山本周五郎の全文学のなかで重要な作品である。これが文壇に登場した第一作であり、山本周五郎の筆名もこれにはじまるが、作品そのものにおいて作家としての資質、初心が明確にあらわれ、その文学の原核がすでに顕在している。(略)周五郎が読者にあてた遺書と思われる直筆を写し、また『須磨寺附近』の原文を抜粋して、ここに記念とする。―
その直筆は、碑の裏側に文学者らしい個性的な書体で彫られている。
貧困と病気と絶望
に沈んでゐる人たちのために幸
ひと安息の恵まれるように。
周五郎
■出石アカル(いずし・あかる)
一九四三年兵庫県生まれ。「風媒花」「火曜日」同人。兵庫県現代詩協会会員。詩集「コーヒーカップの耳」(編集工房ノア刊)にて、二〇〇二年度第三十一回ブルーメール賞文学部門受賞。