2013年
10月号
山陽電鉄「東須磨駅」下車すぐに50年前に創業したボックサン本店がある。 右から三代目・啓祐さん、初代・善之助さん、二代目・敏晃さん

ケーキづくり 親子三代で50年 ボックサン物語

カテゴリ:グルメ, スイーツ・パン,

神戸洋藝菓子 ボックサン
初代  福原 善之助さん
二代目 福原 敏晃さん
三代目 福原 啓祐さん

神戸で生まれ育った、神戸の洋菓子ボックサンが50周年を迎える。戦前から洋菓子一筋に歩んできた善之助さん、その基本を受け継いできた敏晃さん、ボックサンの歴史に新たに加わった啓祐さん。50年の軌跡と、100年に向けての思いをお話しいただいた。

親子三代。それぞれの洋菓子とのかかわり。

―洋菓子業界で親子三代はあまり例がないのでは。
敏晃 親子二代はおられますが、三代は珍しいでしょうね。後継者がいるというのはありがたいことだと思っています。
―敏晃さんが洋菓子業界に入られたのはいつですか。
敏晃 本格的には昭和49年ですから、今年で39年目です。中学生の頃、父は既にボックサンを創業していましたから、私も粉をふるったり混ぜたりの手伝いはしていました。
―その頃から後を継ごうと思っていたのですか。
敏晃 子どもの頃は店舗の2階が住まいでしたので、朝起きたら働いている両親を見て、夜寝る時も働いている両親を見て育ちました。創業間もない大変な時期だったと思います。「継いでくれ」とは言われませんが、「美味しいお菓子を食べて喜んでもらいたい」と頑張っている姿を見て、私も参加していきたいと思うようになりました。
―三代目の啓祐さんが洋菓子業界に入って進まれたのは。
啓祐 大学卒業後ですので10年前、ボックサンに入ったのはつい最近です。
敏晃 彼が進路を決める時、あちこちのお店に連れて行きました。本人が菓子工房みわあおに五月台4丁目店のシェフの下へ行きたいと言うので、そこで5年間修業することになりました。
啓祐 修行を終えてボックサンに戻り、1年間準備をしてフランスへ行きました。フランスのペルピニヨンでMOFの資格を取ったオリビェ・バジャール氏のお店と学校で1年間洋菓子の勉強をした後、1年間働き、その後パリのケーキ屋さんで1年間働き、2年半前に日本へ帰って来ました。
―初代は戦前戦後、洋菓子の歴史を歩んでこられたと言っても過言ではありませんね。
善之助 15歳の時、親戚の紹介で大阪の丸善ベーカリーに丁稚奉公に入りました。この店を営んでいた田村豪也さんが私に洋菓子の基礎を教えてくれた師匠です。田村さんは洋菓子ヒロタの先代の兄弟弟子で、大阪凮月堂の責任者をやっておられた方です。
―丁稚奉公は辛いことも多かったのでしょうね。
善之助 まず朝は誰よりも早く5時半に店に入り、ほかの職人たちが来るまでにお湯を沸かして準備をします。床に就くのはいつも夜11時頃でした。毎日、喫茶店に納入するケーキを自転車にのせて配達しました。クリスマスともなれば寝ている暇もないほどです。当時の私の月給は1円50銭。ズボンの1本も買えません。でも休みは月に1日だけでしたから、お金を使う暇もなく困ることもなかったですね。
―その後、大阪ガス所管ガスビル洋菓子部に勤めることになった経緯は。
善之助 2年ほど過ぎた頃、田村さんが丸善ベーカリーを閉め、私を連れてガスビル洋菓部に入られました。大阪ガスがガス器具普及宣伝のために作ったガスビルで、私は田村さんに教えてもらいながらガス釜でシュークリームやクッキーを焼いて実演販売をしていました。ところが戦争が激しくなり、私も軍隊に召集されることになりました。
―終戦後、中華料理の蓬莱食堂で働くことになったのはなぜですか。
善之助 復員して職を探していた時に、台湾出身の方が経営する蓬莱食堂で洋菓子部の責任者を募集中と聞きました。和菓子部の責任者と田村さんが親しく、紹介していただき働くことになりました。

夫婦二人三脚で歩んだボックサン創業への道

―多佳子さんと結婚されたのもその頃ですか。
善之助 蓬莱食堂は給料がとても良かったのですが、洋菓子部門が廃止になり辞めざるをえなくなり困っていたところ、先輩で洋菓子組合の役員をされていた林田さんにカステラの長崎屋を紹介いただき鳴尾工場で働くことになりました。結婚してすぐのことです。給料はかなり下がってしまいましたが、工場長として11年間頑張り、家内と二人で自分たちの店を持つことにしました。
敏晃 そんな時、鳴尾まで電車で通っていた父が兵庫駅で倒れて意識不明に。十二指腸潰瘍で、もうダメだろうと言われていたそうです。母が泣いていたことを覚えています。胃の3分の2を切り取るという大手術をして無事に生還し、予定より8カ月遅れにはなりましたが開店することができたそうです。もの凄い精神力で頑張ったのでしょうね。
善之助 家内の両親が商売をしていた敷地の一部を借りて東須磨で開店しました。必要な器具や機器は快く、しかも破格の条件で貸してくれたお陰で、大病を患った直後でお金がないにもかかわらず、42歳で有限会社ボックを創業して自分の店を持つことができました。甲子園で洋菓子店を開いていた林田さんの、「商売は失敗するかもしれない。道具は新品でなく中古を使うべし」との教えに従い、ローラー以外の道具は全て中古品で始めました。当時はまだケーキ屋さんも少なくて、順調に売れました。そこで家内のお姉さんが申し込んでいた土地を、家内の実家に保証人になってもらって購入し、住居を兼ねた新店舗を建て、道具も新品を揃えました。現在の東須磨本店がある場所です。
敏晃 父はお菓子づくり一筋ですが、母はお店でケーキを販売して、経営の切り盛りをして、その上、職人たちの食事を作り、さらに、私たちを育て、本当によく働いていましたね。
善之助 家内は朝から晩まで働き詰めで、えらい目に遭わせました。家内が居なければここまでやってこれなかったと思います。家内の両親も、もの凄い働き者で家族みんなががっちりと団結していて、本当によく助けてもらいました。

甘みは旨み。基本は決して崩さない

―二代目が初代から受け継いだことは。
敏晃 今は甘みが少ないケーキが多いのですが、父のポリシーは「甘みは旨み。甘いものを食べるから元気になれる」。それを引き継ぎ、焼き菓子からスポンジまで、主要な配合は変えていません。三代目もこの基本を守りつつ、フランスの味を取り入れながら、100年へと繋げてくれたら嬉しいなと思っています。また、父は「いいものを使って、リーズナブルな価格で、お客さんに喜んでもらいたい。宣伝、広告するお金があるくらいなら、いい材料を使う」と昔から言っています。その思いも受け継いでいます。
―三代目としてはいかがですか。
啓祐 ボックサンの洋菓子を買いに来てくれるお客さんが求めておられるのはやはり昔ながらの味だと思います。
敏晃 と、言いつつも、私もささやかな抵抗を試みました。それが「みかげ山手ロール」です。ボックサンしか知らない私と違って、三代目はフランスで勉強し、よそ様の釜の飯も食ってきました。苦労もしたと思います。その技術と味で、ぜひ彼にも小さくてもいいから自分のブランドを作って欲しいと思っています。
―基本は崩さずですね。
敏晃 私はボックサンに入って父の教えを受けながら7年間、スポンジを焼き続け基本を叩き込まれました。神戸マイスターをいただきましたが、これは父のものだと思っています。
―ボックサン100年に向けての思いは。
敏晃 私はボックサンはもちろん、洋菓子業界が大好き、お菓子が大好き、神戸が大好きです。この業界を更に高めて、洋菓子発祥の地・神戸のお菓子を、市民だけではなく観光客の皆さんにも喜んでもらえるようにしたいと考えています。そのためにこれからも、たくさんの方と交流し、私のできる限りのことをやっていきたいですね。お菓子の醍醐味を伝えていくことが私の使命だと思っています。大手前製菓学院専門学校 特任教授として16年間教えているのもその一つです。先日亡くなられた大手前学園理事長の福井有さんと出会い、こんな機会をいただきました。素晴らしい発想力のある方でした。私にとってとても大切な出会いの一つでしたので、本当に残念でたまりません。
―三代目としてはいかがですか。
啓祐 私は職人としてやっていくことには自信がありますが、人との交流や経営はあまり得意じゃないです。
敏晃 まだまだこれからだと思っています。父はある時、私に「失敗してもいいから自分でやってみろ」と身を引きました。偉かったと思います。私もいずれ、そうする時がくると思っています。
―立派な二代目、三代目が育ってきて良かったですね。
善之助 若い頃は苦しいことや、他人にはとても言えないほどの辛いことも色々ありました。けれども辛抱して、洋菓子づくり一筋にやってきたことが良かったと思います。本当にありがたいことです。
―これからもお元気で、二代目、三代目を見守ってください。本日はありがとうございました。

山陽電鉄「東須磨駅」下車すぐに50年前に創業したボックサン本店がある。 右から三代目・啓祐さん、初代・善之助さん、二代目・敏晃さん


「デコレーションは誤魔化しがきくが、生地はきかない」と敏晃さん。シンプルな「こだわりロール」は看板商品のひとつ


「家内は朝から晩まで働き詰めでえらい目に遭わせました」。多佳子さんの内助の功あってのボックサンでもある


創業当時の東須磨本店。50年にわたり「昔ながらの味」で愛される


敏晃さん(右)と弟の光男さん。光男さんの「リッチフィールド」も人気店である



口当たりはしっとりとしてなめらか。思いのほか濃厚なコクがあり、後味は気品ある余韻を醸し出す「六甲カシミアチーズケーキ」。種類はプレーンとチョコレート。5個入りで893円


クッキー、マドレーヌ、パウンドケーキなどが詰まった神戸洋藝菓子「first」は3,150円


神戸洋藝菓子ボックサン
(東須磨本店)

神戸市須磨区堀池町2-1-25
フリーダイヤル 0120-16-5103
TEL:078-731-3675
[営業時間]9:00〜20:00

三ノ宮店

神戸市中央区三宮町2-6-3
TEL:078-391-3955
[営業時間]10:00〜20:00

大丸神戸店

神戸市中央区明石町40番地
TEL:078-331-8121
[営業時間]10:00〜20:00

福原 善之助(ふくはら ぜんのすけ)

1922年生まれ。小学校を卒業後、丸善ベーカリーなどで丁稚奉公。太平洋戦争では、日本海軍に徴兵される。戦後は長崎屋の洋菓子部門の工場長として勤務。1964年、山陽電鉄「東須磨駅」のすぐ南にボック(現ボックサン)を創業、良心的なお店として人気を博す。多くの洋菓子職人を育てる

福原 敏晃(ふくはら としあき)

1953年生まれ。神戸洋藝菓子ボックサンのオーナー兼パティシエ。神戸市内で5店舗を展開する他、全国の有名百貨店でも、商品を販売する。「神戸マイスター」の称号をもつ。兵庫県洋菓子協会副会長、大手前製菓学院教授。兵庫県技能顕功賞、神戸市技能奨励賞などを受賞

福原 啓祐(ふくはら けいすけ)

1979年生まれ。大学卒業後、「菓子工房みわあおに五月台4丁目」で5年間修行。その後、フランス語の勉強のため、フランス、ペルピニヨンのオリビェ・バジャール氏が経営する製菓学校で学び、現地で洋菓子の勉強を行う。現在、ボックサンの専務をつとめる

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