5月号
連載エッセイ/喫茶店の書斎から72 飛騨高山の山鳥
3月号の本欄に田中冬二の詩「城崎温泉」を取り上げた。その中の一節に疑問があると。
冒頭の、《飛騨の高山では「雪の中で山鳥を拾つた」といふ言葉がある》である。
わたしはこれについて次のように書いた。
《「雪の中で山鳥を拾つた」にどんな意味があるのか?わざわざカギかっこに入れてある。これには意味があるはず。飛騨高山でのみ通じるような故事来歴があるに違いない。
それは何なのか?それがわからなければこの詩の真意は解らないのでは?》と。
そして、文末に《「雪の中で山鳥を拾つた」だが、原典を知る人はないでしょうか。お教えください。》と添えた。
このほど便りがありました。
「飛騨高山まちの博物館」からである。
送られた資料を読んで大いに感動した。
その一つに『飛騨の鳥』(川口孫治郎著・大正十年・郷土研究社)からのコピー、「ヤマドリを拾ふ」があり、その一部。
《高山町では大雪の上を歩く際、辷べつて轉んだ其機に、『ヤマドリを拾つた!』といつて起き上がる風があつたさうである。
之は大道の眞中で辷り轉がることの、あまり體裁の良くない為に、所謂テレカクシといふものかも知れないが、それにしては、何とでも言ひ様のありそうなものなるに、
特に此詞を用ひ來つた所由を熟考すると、昔は、ヤマドリが如何に多く町近くに出現したかを想ひ浮ばしめらるゝ。》
大正10年発行のこの本に「あつたさうである」とある。
このあと、この地にいかにヤマドリが多くいたかということが書かれていて、《之等の事實から推考すると、昔の高山町内では、雪中に轉がつて、本當にヤマドリを拾つたことがあつたかも知れない。》と。
やはりあったのである。「ヤマドリを拾う」という言い方が昔から、というより昔にはあったのだ。
また別の資料『飛騨のことば』(土田吉左衛門著・昭和34年)。「やまどりうつ」の項に、《すべつて転ぶこと。雪路などで顛倒すると「やまどり一羽うつた」などという。》とあり、先の話に通じるところがある。
やはり、飛騨高山でだけ通じる言葉だったのだ。
ところで、なぜ詩人田中冬二はこのことを知っていたのだろうか?それは、もう一つの資料を読んでみて納得がいった。
高山市在住の詩人・郷土史家だった西村宏一氏の散文集『合切嚢』(西村宏一著・1991年・すみなわ詩社)から「冬二追悼」の項。
《田中冬二さんがなくなった。たった二度高山へ来られただけだったが、こよなく高山を愛された方で、
ある時いただいたお便りには「高山は私の心のハイマートです」とあった。》
そうだったんですね。飛騨高山を田中はよほど気に入っていたのだ。西村はこうも書いている。
《「城崎温泉」では、飛騨の高山では「雪の中で山鳥を拾った」という言葉があるがと記してある。それらの事象や言葉は作品の外のここにはもうないのである。
(略)田中さんは飛騨を題材にした詩を十編ほど残されている。残念ながら地元の詩人には、これほどの愛惜をもってふるさとの町を歌った詩は稀である。
田中さんの詩の中の高山の風俗は、今はもう失われて存在しないものが多い。
(略)市の郷土館には、この詩人の晩年の作が、自筆で書いて掲げられている。
幼いものが泣くと 私は言った
お父さんと 飛騨の高山へ行こうね
私はまた妻と争などして
何か憤しい時にも 幼いものに言った
お父さんと 飛騨の高山へ行こうね》
切々たる詩だ。
戻って「城崎温泉」である。
飛騨の高山では「雪の中で山鳥を拾つたといふ言葉がある/
私は雪の中で山鳥を買つた/
可哀相に胸に散弾のあとのある山鳥を/
さむい夜半だつた/
私はそれを抱へて山陰線の下り列車を待つてゐた。
やはりこの詩は痛々しいだけのものではなかった。
※資料を提供してくださった「飛騨高山まちの博物館」の松永英也様に感謝申し上げます。
■六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会計。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
■今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。西宮芸術文化協会会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)、『完本 コーヒーカップの耳』(朝日新聞出版)ほか。