2月号
連載エッセイ/喫茶店の書斎から69 記事になっていた盗用事件
久しぶりに開けてみた。宮崎修二朗翁から託されていた紙袋である。
著名文人からの書簡や、詩人の生原稿、そしてコピーなどが入っている。
その中の、一枚の切り抜きに驚いた。それは無いはずのものだった。
本誌、2011年7月号より三回にわたり「剽窃」と題して、芥川賞候補にもなった洲本市出身の作家、中野繁雄の盗用のことを書いた。
中野が、奈良出身の歌人福田米三郎の歌集『指と天然』(1942年)に掲載の短歌を自分の詩集『象形文字』(1955年)に盗用していたというもの。詳細はバックナンバーに当たられたい。
その盗用事件を若き神戸新聞記者だった宮崎翁が記事にしたが、掲載はされなかった。
ところが今回見つけたこの切り抜きは、まさにその事件ではないか。
《波紋えがく一詩集の盗用?事件》の見出し。六段組、写真入りの大きな記事である。
おかしいなあ。たしかに宮崎翁は「載せてもらえなかった」とおっしゃった。
ところがよく見てみると、上部欄外に「國」という一字が見える。ということは「神戸新聞」ではなく、これは「國際新聞」なのだ。裏には日付がある。1955年4月27日。
詩集『象形文字』は同じ年の正月に発行されている。
なぜ神戸新聞には掲載されなかったのか。思うに、上司が中野あるいはその周辺に忖度したのだ。しかし悔しい。なので、自分がかつて在籍していた「國際新聞」で記事にしてもらったということなのだろう。このこと、わたしは聞いてはいない。翁はこの切り抜きを紛失したと思い込んでおられたのか。あれほど記憶力抜群の宮崎翁でもこんなことがあったのだ。折りたたまれて、多くの書類の間に挟まれた古い切り抜き。探し出すことができなかったのだ。それを今頃になってわたしが見つけるなんて。
ところでこの中野繁雄だが、詩人和田英子さんの労著『風の如き人への手紙・詩人富田砕花宛書簡ノート』(1998年・編集工房ノア刊)の巻末近くに多くのページが割かれている。このことが宮崎翁には大いにご不満だった。翁からのわたしへの手紙にこんなことが書かれている。
《〇〇〇〇ニンゲンがどんな手紙を書いて砕師にとり入ろうとしたか。(略)本になってしまって、悔やまれてなりません。》
富田砕花の真の理解者だった翁の言葉である。
ただし、和田さんのお人柄に触れたことのあるわたし、少し弁護しておきますが、この本は大変な努力の末に生れたものであり、後の研究者には大いに参考になるものであることは間違いない。兵庫県の文化賞を受けただけの価値はあると思っている。しかし宮崎翁にとっては、《妙な「社会的」な上昇感覚をもった人物(中野のこと)が、その時代の風潮を染色することのコワサを、後世の人に一人でも多く「正史」として伝えておくことが、世間への「罪滅ぼし」だと思うことがありまして、ネ。》と書いておられるのだ。砕花師がこんな輩とお付き合いがあったと読者(研究者)に思われることが宮崎翁には許せないのだ。とは云え、中野の砕花師への手紙は、就職の斡旋を依頼するなど、読む人が読めばその下心は見えるものではあるのだが。
切り抜きの記事には、40カ所の盗用とあるが、わたしが10年前の本誌で指摘したところをもう一度上げておこう。先ず、福田の短歌。福田は自由律短歌である、
からからと野晒しの白骨がなり 僕の枯れた指を 風が越えていつた
そして中野の詩「火葬場のこほろぎが啼いている」より。
から
から
と
野晒しの白骨が鳴り
僕
の
枯れた
指
を
風が越えて行つた
まるで一緒だ。
国際新聞の取材に答えて日本音楽著作権協会押田良久氏は、
《これじゃあ著作権うんぬんというより、はっきりした盗用だ。》
ところが中野はこう弁明している。
《三百部の限定本として出版したが『指と天然』というような歌集があったことも知らない。》
書かれたものは残るんですね。恐いことです。
■六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会計。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
■今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。西宮芸術文化協会会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)、『完本 コーヒーカップの耳』(朝日新聞出版)ほか。