11月号
千歳町について
“美しさ” に包まれて 夙川千歳町の暮らし
夙川のせせらぎの東、阪急とJRに挟まれた一画には縁起の良い地名が多い。それはなぜだろう? 近代に産声を上げた千歳町とその周辺の起源を紐解いてみよう。
阪神間は明治末期から大正にかけて、空気と水清らかで健康的な環境、かつ景色も良く、工業化で煤煙の街だった大阪から富裕層や知識層が移り住む郊外住宅地として発展する。その後押しをした阪神・阪急という2つの私鉄が走る西宮もまた人気を集めて住宅需要が増すと同時に、都市化が進行して市街のコアも膨張していった。
ゆえに土地利用の高度化は待ったなしの状態になり、それまで田畑が広がっていた土地を区画整理することにより計画的な市街地開発が実行される。当時は大正8年(1919)に都市計画法が施行されていたものの、実際の土地整理については耕地整理法を準用して耕地整理という名目でおこなわれたという。
旧西宮町の区域では、市街中心部の周辺から耕地整理がはじまった。夙川左岸の省線(現在のJR)と阪急に挟まれた一角は、大正10年(1921)に結成された西宮第二耕地整理組合により区画整理がおこなわれ、大正13年(1924)に約30ヘクタールが碁盤の目のような整然とした街区へと生まれ変わる。この新しい街には早くからインテリや文人、ホワイトカラーたちが居を構えた。
このエリアの西北部分にはかつてお地蔵さんや五輪塔が多くあり、そこから仏の寿命が想像を超える長さであることをいう「無量寿」より一字を戴き寿町と名付けられた。寿町の東側は町域が末広状になっていることから末広町に、その少し南は町域の中央にある老樹の一本松から常緑や不変を意味する「常磐」が町名になったようだ。
そして千歳町は北側を寿町と接し、町域の西にあたる夙川の堤に長寿のシンボル、松が生い茂っていたことからその名が付いたという。
千歳町やその周辺の町名にはめでたい名前が多い。そこには、新しい街が末永く幸福の舞台になってほしいという先人たちの願いも込められているのかもしれない。