9月号
ウガンダにゴリラを訪ねて Vol.11
【Gorilla Tracking】⑤
文・中村 しのぶ
なかむらクリニック(小児科)
発展途上国と呼ばれる国々において少しでも病気や貧困が無くなれば彼らは幸せになれると思っていました。しかし、これはアフリカの外から見た価値観であることに気付きました。
産業革命の労働人口の確保のため奴隷貿易が盛んになり、一方欧米人冒険家、宣教師がアフリカの地を踏み、キリマンジャロ、ビクトリアの滝、ナイルの源流など次々発見!?命名していきました。しかし山も湖も太古の昔からそこにあり人々はそこで暮らしていたのです。奴隷制度が廃止になり欧米は次にアフリカを植民地として分けるためにベルリン会議を開きます(1884年)。アフリカの民は勿論何も知らないことです。彼らは様々な部族がそれぞれの場所で暮らしていました。
狩猟、農耕、放牧、漁業をしながら集落を作り時には戦もあったでしょうが通信手段もなく、大陸の外はもちろん隣の部族のこともほとんど知らず、人類が始まって以来の暮らしを紡いできたのでした。
特にウガンダに関してはバナナは自然に生えてくるし、気候も温暖でヤギを飼っているとミルクや時には肉も食べられる暮らし、飢えることもなく平穏に暮らしている人々だったのです。とりたてて努力する習慣もなく、頑張らないで生きていける豊かな自然に囲まれて貧しいという自覚もなく淡々と暮らしていたのでした。
今もそして昔もそうだったとも思いますが人々は昼間、特に男性は村の道端に座って談笑していることが多く(これは村の情報交換として大切な仕事とガイド達は言っていましたがこれは男性陣の言?)、女性はロバと同じ扱いと言われるくらい地位が低くよく働きます。重い荷物を頭に乗せ道を歩いている人はほとんどが女性です。一緒に男の人が歩いているときも、彼はだいたい手ぶらです。そんな日常のなか、ベルリン会議で突然土地に線を引かれ植民地としての分割が行われました。中学校で学んだ世界地図、アフリカの国境は直線が多くきっと砂漠で線引きしやすかったのだろうと思っていましたが、実は欧米の横暴の結果だったのです。欧米各国が机の上で地図を広げ陣地取り合戦で線を引いたのです。2000を超えると言われる言語や部族、自然の山や川を無視して結果として国境線の44%が直線となり、そのほとんどが英、仏、スペインなどわずか7カ国の支配下に置かれたのです。ケニアとタンザニアの国境には後日談があり、キリマンジャロ山は最初ケニア領にあったのですがこの山が後にアフリカ最高峰とわかり、ドイツの皇帝がどうしてもドイツ領のタンザニアに欲しいと従姉のビクトリア女王に嘆願し(たぶん交換条件はあったでしょう)、ドイツ皇帝の誕生日に国境を変更しタンザニア領になったということです。歴史はいつも末端の民に無慈悲、非情です。植民地はその後次々独立し、ウガンダの独立は1962年、イギリスが植民地目的で作った枠組みを引き継ぐことになるのです。通信技術などまったく無い当時のアフリカで彼らの意思は考慮されず、見たことも聞いたこともない人たちとひとつの社会を作らされることになったのです。その国という社会のサイズは大きすぎるし構 成も複雑です。
現在アフリカを良くしようと多くの外国人がアフリカに来ていますが、そもそもベルリン会議以来なぜこのような現状に至ったかという根本的な原因を顧みず、表面的な問題をとらえるのでなかなか改善が難しいようです。ウガンダは半分くらいの王国形態の社会と半分は全く中央集権の形をなしてなかったばらばらの地域が一つの国にされました。社会組織の経験の無いところで民主主義は成り立たないのではないでしょうか?
(次回へ続く)