9月号
標高931メートルの都市資源・六甲山
公益財団法人神戸都市問題研究所理事長
六甲山大学名誉学長
新野 幸次郎さん
神戸開港150年を迎えた神戸。港町として繁栄したことと、六甲山の地形は深くかかわっている。神戸大学学長を務め、その後、公益財団法人神戸都市問題研究所理事長を務める新野幸次郎さんに、「都市山・六甲山」の価値についてお話を伺った。
30年に一度の土砂災害
―新野さんが、都市資源としての六甲山の価値を研究しようと思われたのはなぜでしょうか。
神戸都市問題研究所には、1991年に着任しました。事務所は貿易センタービルの非常に眺めの良い場所にあります。背後に六甲山、そして目の前にその六甲山のおかげで世界的な良港となった神戸港を毎日目にしています。そんな場所で1995(平成7)年、阪神・淡路大震災が起きました。復興の過程で、私は当時の貝原兵庫県知事に「都市再生戦略策定懇話会」の座長を仰せつかったり、作家の故・陳舜臣さんや故・今井鎮雄さんらとともに「兵庫創生研究会」を立ち上げるなどの活動を行いましたが、街の復興とはまた別に、六甲山の災害や問題についてを考えなくてはいけない、と強く感じるようになりました。
一方で私は六甲山のふもとの神戸大学に1946年に入学し、卒業後は研究室に残って1991年まで、45年おりました。ところが1967年に大洪水が起きまして、家に帰れなくなった垂水のゼミ生がうちに泊めてくれと言ってきたことがありました。そのとき家内の実家は床上浸水となり、それじゃあと言うのでゼミ生がたくさん集まって、家内の実家や近所の家々の片づけをボランティアで手伝ってくれたのです。その結果、学生たちや近所との協力関係を作り上げることができたという思い出があります。神戸を巻き込んだ大水害といえば、それより以前の1938(昭和13)年に阪神大水害がありましたが、そのときの非常に甚大な被害に比べれば、まだ被害が少なかった。というのも、阪神大水害の後にダムが造られたため、主流の川は水の勢いが抑えられていたのですね。
記録に残っている六甲山における最古の土砂災害は652年のようで、その後、799年~1868年の間に、大きな災害が38回起きています。六甲山の土砂災害は約30年に一回の割合で発生しているんです。六甲山は花崗岩でできています。花崗岩は風化すると砂質土(マサ土)になり、雨が降ると崩壊しやすくなります。それらは川に流れ出て海へ出ますから、だんだん砂浜は埋め立てられていき、六甲付近でいうと昔は岩屋の敏馬(みぬめ)神社の前あたりが海岸線だったようです。つまり六甲山は崩れてどんどん平地に近づいていっていることになるのですが、プレートの隆起運動が続いているため、六甲山は931メートルという高さを保っています。
そういうわけで六甲山は崩れやすい地質でできていて、いつまた土砂災害が起きるかわからないのです。最近の大雨の降り方を見るとさらに恐ろしい。ですから行政も、私たち神戸市民も、ハザードマップをはじめそれらの危険性を把握し、自覚しておかなければなりません。
けれども私たちは六甲山から非常な恵みを受けています。六甲山を里山ならぬ「都市山」と名付けられたのは、兵庫県立大学の服部保先生です。自然環境に大切な里山は、たいてい人里離れた場所にありますが、神戸の六甲山は都市部にある「都市山」ということです。日本という国は、その国土面積に対して森林が7割近くを占めています。これは世界で5番目の比率で、いわば日本は「森林王国」といえます。その中で、神戸ほど森林の多い大都市はほかになく、神戸はその「森林王国」を代表する都市です。
よく知られている通り、六甲山は昔は“はげ山”でした。そもそも、豊臣秀吉が大坂城を築城する際、六甲山の御影石を城郭基礎用の石材として献上させる見返りに、木を伐採する許可が与えられました。材木や松根が燃料として乱伐され、火事の頻発による荒廃なども進み、明治中頃には完全な“はげ山”となってしまいました。そこで1903(明治36)年から植林活動が始まりましたが、その植林指導に当たったのは、明治神宮の森を作った本多静六です。以来、植林事業や治山事業が行われ、現在のような緑豊かな六甲山に戻りました。森林の機能は、生物多様性の保全、地球環境の保全、土砂災害防止、スポーツなどのリクリエーション機能の保障などさまざまなことが挙げられます。六甲山もその機能を十分に備えています。幸いなことに、六甲山はそんな「都市資源」として保全しようという、民間団体による活動がさかんに行われており、大変喜ばしいことです。
神戸の港と
六甲山との深い結びつき
―開港150周年を迎える神戸港ですが、港が六甲山の恩恵を受けているということについてはいかがでしょうか。
六甲山は、およそ100万年前、東西方向の強い圧力によって海から盛り上がるようにできた山です。そのため港も、山の砂で埋まってできた港に比べて海が深いといえ、海の深さを必要とする大型船が入港可能な港として知られるようになりました。加えて須磨周辺は西からの風を防ぐような地形であり、古く兵庫の津の発展に見るように、風の向きに作用する地形も幸いしました。海の深さと風の向き、これらが神戸港が貿易港として発展した、自然科学的な要因です。
神戸大学の前身である神戸商業高等学校は「経営学」を学ぶコースが日本で最初に作られました。一橋大学の前身である東京高等商業学校にも商学はありましたが、こちらは商学の研究を主に行っていた一方で、神戸商高では神戸港を有する神戸で、将来は世界との貿易に携わるような人材を作り上げようと、実務にも強い学校にしたかったのです。これも、神戸港が一大貿易港であったからこその動きでした。
山からの水が川を通って海へ流れ込み、栄養のあるプランクトンの生成によって海の水質や生き物の生育にも関わってくるということもよく知られています。六甲山は崩れやすい花崗岩でできていますが、そこからの湧き水は灘の酒づくりに欠かせない宮水として、また「腐らないコウベウォーター」として世界の船乗りの間でも有名な、歴史ある良質な水です。
六甲山の都市資源を
より良く、次世代に
―私たちも六甲山の環境を守っていかなくてはなりませんね。
天皇陛下が皇太子時代に養育係を任された、小泉信三さんという方がおられます。この方が随筆『平生の心がけ』(1988年刊)の中で、森鴎外の「生まれたままの顔で死ぬのは恥ずかしいことだ」という言葉を引用して、「われわれが、祖先から引き継いできた国土をそのまま次の世代に渡すのは恥で、この国をより良い状態にして次世代に渡すようにしなければならない」と述べています。私は、六甲山系にも同じことがいえると思います。植林活動や、親しみ深いリクリエーション施設の充実など、先祖が創り上げてきた都市資源としての六甲山を、より工夫して立派なものにして次世代に受け継ぐべきです。森林王国である日本を代表する、神戸らしいまちづくりを目指していきたいと思います。
新野 幸次郎(にいの こうじろう)
大正14年、鳥取県生まれ。昭和24年に神戸経済大学経済学科を卒業し、同大学神戸経済大学文官教官、助手となる。昭和38年、神戸大学経済学部教授に就任。同大学広報委員会委員長、経済学部部長等を経て、昭和60年に同大学学長・医療技術短期大学部学長に就任。平成3年、神戸大学名誉教授。現在、(財)神戸都市問題研究所理事長、(財)ひょうご経済研究所理事などを務める