9月号
関西屈指の文教地区六甲界隈について【上】
六甲山の麓、緑の裾に佇む閑静な環境は関西屈指の文教地区として知られている。現在の阪急六甲駅の北西の篠原、駅の南の八幡を中心に、六甲エリアが歩んできたヒストリーを振り返ってみよう。
先史時代の稀有な足跡
日当たりの良い六甲山系の南麓は温暖で、清らかな水がある。実り多い木々が茂り、猪などの獲物も棲み、すぐ近くには海があるから魚も容易に得ることができたであろう。狩猟採集で暮らしをたてていたわれわれの祖先にとって、ここは理想的な環境だったに違いない。ゆえに有史以前から人々がいきいきと暮らしていたようだ。
阪急六甲駅の北西、六甲川と杣谷川の合流地点一帯に広がる篠原遺跡からは、歴史の教科書をめくって数ページの時代の痕跡が発掘されている。縄文中期から後期にかけての竪穴式住居やお墓など跡だけでなく、石器類が出土。さらに縄文時代の特徴が色濃い亀ヶ岡式土器、遮光器型土偶、注口土器なども見つかった。いずれも青森~岩手~宮城で見つかったものと同じようなスタイルで、もしかするとこの頃から東北と行き来があったのかもしれない。ちなみに遮光型土偶は腰や乳、太ももが張った女性を模しているとされ、どうやら祭礼や呪術の場で使われていたようだが、篠原遺跡がその分布の最西端とされている。
篠原遺跡では弥生前期・中期の遺跡も見つかっている。また、篠原の山側、弥生時代遺跡である伯母野山遺跡からは穀物を収穫する磨製石包丁や石鎌、穀物を蒸す甑などが見つかっていることからも、この頃になるとこの地へも稲作が伝播し、農耕がおこっていたことがうかがえる。農耕は共同作業を要し、そのため権力者が支配するという社会構造=クニを生んだが、その統治に重要だったのが儀礼だ。農耕儀礼では青銅の銅鐸や銅戈が用いられ、権力の象徴として崇められたが、六甲川から鶴甲の尾根を挟んで一筋東の谷の上流にある桜ヶ丘では、昭和39年(1964)に銅鐸14個、銅戈7本がまとまって出土(これらの出土品は現在国宝に指定されている)し、考古学のビッグニュースとなった。なぜこのようにまとめて埋まっていたかについては諸説あるが、いずれにせよこの一帯がいわゆるクニの体をなしていたことは想像に難くない。ちなみに伯母野山遺跡からは漁に関する道具も出土しており、豊かな食生活が営まれていたようだ。太古からグルメの街だったのかもしれない。
やがてクニとクニとが統合するなどより大きな富や権力を持つ支配層が出現、3世紀半ばから古墳時代へと移っていく。六甲エリアにもかつて多く古墳があったと思われるが、長い時間の中でその多くが消滅している。篠原南町の鬼塚は、墳丘こそ失われども古墳時代後期に築かれた長さ3m、幅2mの横穴式石室が残り、副葬品とみられる鉄器や勾玉が発見された。江戸時代の文書には「かつて鬼が住んでいた」と紹介されているが、それだけ近寄りがたい雰囲気があったということなのだろうか。
中世は戦乱の舞台に
やがて大和朝廷が支配する世になり、律令体制の中に組み込まれ、一帯は莵原郡天城郷となった。中世を迎え律令体制が崩壊すると荘園の支配下となり、都賀野荘に属した。都賀野荘は藤原摂関家と縁がある荘園だったようだ。
都賀野荘で代々代官を務めた若林家には、貴重な文書『天城文書』が所蔵され受け継がれてきた。その古い文書によると、高羽、八幡、新在家、ミトロ(味泥)など現在の灘区の町名のゆかりとなった村々がすでに15世紀に成立していたことがわかる。若林家は摂関時代に奈良から移り住んだとも、それ以前の土豪だったとも言い伝えられていてルーツは定かではない。
平安時代末期になると、平清盛が兵庫に拠点を置いた。篠原北町にある祥龍寺は649年頃に開基された古刹だが、清盛の福原遷都の頃に寺運が盛んだったという記録が釣鐘の銘に記されていたそうだ。ちなみにこの釣鐘は1712年造だったが、戦時中の金属供出により現存しない。また、現在の阪急六甲駅南隣にある六甲八幡神社は、一説では清盛の福原遷都の際に男山八幡を勧進したとされている。ほかにも1026年に永原武信という人物が八幡大神を祀ったという説、1310年代に花園天皇の勅命で宇佐八幡を分祀したという説があるが、いずれにせよ遠い昔からこの地を見守ってきたことに違いはない。
平氏が滅び源氏が鎌倉幕府を成立させ、武士の支配する時代となったが、14世紀になると鎌倉幕府内に対立が生まれ、それに乗じて後醍醐天皇が朝廷の政権奪還を目論んだ。しかし2度にわたる倒幕計画は失敗、隠岐に流された。そんな中、後醍醐天皇を支持する反幕府の勢力が出現する。播磨の赤松円心もその一団として1333年に挙兵、摩耶山を拠点として京へ向かって山陽道を攻め上がろうとする。一方の幕府方も六波羅探題軍がこの動きに対抗、八幡神社の杜に押し寄せるなど篠原~八幡は主戦場となった。赤松軍は足軽を麓に派遣して遠矢を射させ、敵方を左右が狭くなった七曲がり(現在の六甲台あたり)までおびき寄せ、そこに反対側の尾根にいた部隊が一気に攻め込んで攻撃。六波羅探題軍は4千もの兵を失ったという。ともあれ、赤松円心はこの地を重要視し、地形を巧みに生かして大勝利を収めた。ちなみに現在、赤松町という地名があるが、これは明治時代に六甲台で発見された石垣を円心の居城、赤松城と誤認したことからきているとか。
ところで、「六甲」という名はどうやら近世後期以降のようだ。江戸時代後期の伊能図でも六甲山は「武庫山」と記されている。「武庫」と「六甲」の関係とはいかに?万葉集の時代、難波津に出た大和の人は、大阪湾の対岸に望む一帯を「ムコ」とよび、「六児」「武庫」「務古」「牟古」などと表記した。いずれも〝向こう〟という意味と推察され、後に「ムコ」に「六甲」の字があてられて「ろっこう」と読まれるようになったようだ。「神功皇后が六つの甲を埋めたから六甲」という伝説もあるが、これは後の時代に語られたものだと思われる。
(次号へつづく)