4月号
兵庫ゆかりの伝説浮世絵 第三十八回
中右 瑛
須磨寺若木桜の高札の謎?狂言『一谷嫩軍記』の悲劇
「一の谷合戦」戦の浜(須磨浦)で、源氏方の熊谷次郎が、平家の若き公達・十五歳の敦盛公を討ったことが「武士の情けを知らぬ無粋者」の批判を受け、熊谷自身も自戒の念にいたたまれず、出家したという。
江戸時代になって、この熊谷を主人公にした芝居が上演された。熊谷が討ったのは敦盛ではなく実は・・・・・・?
意外なトリックが仕掛けられている。
宝暦元年(1751)、浄瑠璃人気作者・並木宗輔の狂言『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』が初演された。
桜が満開の須磨寺の境内に、義経は弁慶に命じて一本の高札を建てさせた。
「若桜の一枝を盗む者は、いやしきものぞ!」(芝居では、一枝を切らば、一指を切るべし)。
その昔、母の常磐に連れられた牛若(義経の幼名)ら三兄弟が、吉野の山中で凍死寸前になっていたところを平家方に捕らわれたが、敵方でありながらも幼い命は救われた。義経は、武士の情けを身を以って知らされていたのである。
この高札の意味は、義経の幼きときの助命を受けた経験を基にしたもので、「平家の若い公達を桜に見立てて、敵方といえども、むげにその命を散らすな」という謎かけであった。
この意味を理解した熊谷は、敦盛公を討たず、わが子・小次郎を敦盛公の身代わりとした、極限の忠義心を組み入れたものである。虚構劇に仕掛けられた意外なトリックで、逆転発想の意外性をはかったものである。
この狂言は、古典歌舞伎の名作中の名作として知られ、江戸庶民は苦悩する熊谷に同情し涙を惜しまなかった。
この挿図(芳年画)のシーンは、身代わりになった小次郎への思いと、わが子を犠牲にしてまで忠節を尽くした熊谷の心情を察して、義経一同が涙しているところだ。
典型的な忠節、義理人情を描いた武将・熊谷の心理劇だが、封建社会の、主と従、親と子などの人間の絡みや厳しい武門の掟が、見事に抽出されている。戦争が、残酷にも一家族の運命を変え、散り散りになっていく悲劇が見事に描き出されているのである。
これは封建時代の虚構の世界で、「忠義のためには子供を犠牲にする」ということは現代では到底理解できないが、封建時代としては、それが極限の忠義である。
中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。