8月号
有馬温泉史略 第八席|アリマニア秀吉は 有馬の恩人?厄介者? 安土桃山時代
アリマニア秀吉は 有馬の恩人?厄介者? 安土桃山時代
前回申し上げましたように、秀吉の最初の有馬入湯は、三木合戦終了後の1580年とされていますがこれは伝承。文献では1583年、有馬温泉が秀吉の蔵入地になった3か月後で、自分の領地ですから大手を振ってやって来たのでしょうかね。10日ほどの滞在に石田三成や増田長盛、一説には正室の*ねねも随行。賤ヶ岳合戦の疲れを温泉で癒やしたことでしょう。
有馬でリフレッシュした秀吉は小牧・長久手の戦いに臨みますが、家康が相手とあって苦戦します。状況が膠着した1584年に有馬にやって来て10日前後のヒーリング。その後家康との和睦と相成りホッとしたのか、翌年の年明け早々に有馬にやって来て2度も茶会を開催、千宗易や山上宗二、津田宗及らもご相伴にあずかっています。
秀吉が去って程なく、ねねが有馬へお風呂入りにやって来て、「1576年の大火で焼けちゃった薬師堂を再建してね♪」と寄進、有馬の人たちは喜んだことでしょう。
ビバ!秀吉の空気の盛り上がりを察してか、秀吉は前回の入湯からわずか8か月後に石田三成、増田長盛、大谷吉継、千利休、今井宗久・宗薫父子ら総勢52名を引き連れて有馬温泉を訪ねます。ゴージャス!
その後の入湯は、1587年に九州征伐の慰労に来て、1589年にも豪遊し湯女に金をばら撒いたという説があります。一方で天下統一までの5年間は有馬断ちして戦に集中していたという説も。
さて、見事天下統一を果たして3か月弱後、秀吉は有馬へ凱旋します。戦の日々から解放されてホッとしたのか、20日間のんびり。千利休や小早川隆景、有馬の人たちと阿弥陀堂で茶の湯を楽しんだとか。
その次の来訪は1591年、愛児鶴松夭折の直後。その2年後、秀頼誕生の直後にもまた秀吉は有馬を訪ねています。悲喜こもごも、節目節目の有馬通いですね。
1594年、57歳の秀吉は失禁や肩肘の痛みで湯治することになったものの、不調で出発を4日ほど延期。でもね、大好きなお妾さんの松ノ丸ちゃんが有馬に滞在していたので、頑張って追いかけちゃったみたい。この時は御所坊、池坊、兵衛が合同で湯屋の近くに御座所を設け迎えましたが、ここから人の背中を借りてよれよれと湯屋まで通ったそうで、それが気に入らなかったのか、松ノ丸ちゃんにカッコイイとこ見せたかったのか、急に「火の用心が悪い」とイチャモンつけて御殿の設置を命じます。
これで有馬は大混乱!たった1つの泉源を召し上げたばかりか、わずかな補償で65軒も立ち退かせ、御所坊、下大坊、上大坊、角坊、中坊などの宿もその対象に。しかも2か月後に完成しているので即刻退去。御殿に樋で温泉を引いたので、下々の者は御殿から流れてくる湯にしか入れなくなっちゃった。
御殿完成を祝う1594年の秀吉入湯の際は、ねね、石田三成、浅野長政ら170名で華々しく。でもこんなに迷惑をかけて建てた御殿でのステイはこれっきりで、翌々年の慶長伏見地震で御殿は大破、温泉は熱湯になり入浴不可に。秀吉は有馬復興を命じたのはよかったけれど、1598年に温泉寺奥ノ院から新湯が涌いたと聞くと先の65軒に土地を返還し、奥ノ院を立ち退かせてここに湯殿を造営。それが現在の「太閤の湯殿館」の遺跡です。秀吉は完成直後の湯殿を訪ねる予定も風雨のため中止。結局は没して夢叶わず、程なく新湯も枯れたと伝わります。
晩年の秀吉にこんだけムチャクチャ振り回された有馬の人たちですが、現在に至るまで秀吉を恩人と言ってはばかりません。有馬の人は度量が大きいですね。それとも、天下人が愛したことを「ブランド」として利用してきたからなのでしょうか。だとするとある意味、有馬の人たちはしたたか。策略家だった秀吉もあの世で「なかなかやるではないか!」と微笑んでいることでしょう。
*秀吉の正室の呼称については「ねね」「おね」「北政所」「高台院」などいろいろあるが、本稿では「ねね」で統一。