8月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~㉘後編 鬼塚喜八郎
鬼塚喜八郎
机一つから世界へ…チャレンジ精神は今も
世界へのこだわり
昨年夏に開催された東京五輪・パラリンピック。トライアスロンでは男女ともにアシックスの開発したシューズを履いた選手が金メダルを獲得し、鬼塚喜八郎が目指す〝世界で戦う強さ〟を証明した。
オニツカタイガーのシューズが初めて五輪に参戦したのは今から66年前。1956年のメルボルン大会以来、挑戦を続けている。
「オニツカが国際化するためには、まずオリンピックで認められること…」。そう決意した喜八郎が、初めて五輪の会場を訪れたのは1960年、ローマ五輪のときだった。
そこで、喜八郎は衝撃的な光景を目撃する。
マラソン競技のゴール地点。彼の目の前を、無名の黒人ランナーが駆け抜けていった…。
このときの喜八郎の驚きが、自伝「念じ、祈り、貫く」の中でこう綴られている。
ローマ五輪で金メダルを獲得したランナーについて、当時の彼は何も知らなかった。
「誰だか分からないので、隣にいた人に聞きますと、エチオピアのアベベ選手だと教えてくれました。こちらは靴屋ですから、すぐにどこのシューズを履いているのだろうかと足元を見るくせがありますが、アベベ選手はシューズを履いていないではありませんか」
アベベの足元を見た瞬間、彼はこう考えた。
「近代オリンピックの花と言われるマラソン競技で裸足のまま走るとは前代未聞ですし、マラソンは裸足で走るのがいいなどと言われるようになったら、靴屋はお手上げです。何とかアベベにシューズを履かさなければと強く感じたものです…」と。
4年後の五輪の開催地は東京だったから、尚更、喜八郎はアベベにオニツカタイガーを履かせたい、という思いを募らせていった。
翌年、そのチャンスが巡ってくる。日本開催の毎日マラソンの招待選手として来日したアベベの宿泊先に喜八郎は出向く。
「今回も裸足で走る」と言うアベベに対し、「日本の道路にはガラスの破片なども落ちているので、大事な足を傷つけるかもしれない。ぜひシューズを履くべきだ」と喜八郎は粘り強く説得した。
工場へ戻った喜八郎は、直ちに技術者たちに興奮気味にこう命じていた。
「世界で一番軽いマラソンシューズを作ってくれ!」
喜八郎の説得の末、アベベは裸足ではなくシューズを履いて、この大会で優勝する。オニツカではないシューズを履いて。
そして1964年の東京五輪でもアベベはシューズを履いて見事、金メダルを獲得するが、そのシューズにも、勇ましいオニツカの意匠はなかった…。東京五輪でアベベは、ライバルであるドイツのメーカー、プーマのシューズを履いていたのだ。
当時の日本のアマチュアスポーツの規定では、企業が選手と契約し、お金を払うことは許されていなかった。東京五輪で、アベベはプーマのサポートを受けていた。
「アベベで金メダルを!」という喜八郎の悲願は叶わなかったが、東京五輪でオニツカのシューズを履いた選手が獲得したメダルの数は金21個、銀16個、銅10個。計47個にのぼった。
不変のハングリー精神
東京五輪の前年…。一人の米国人青年が喜八郎を訪ねてきた。「米国には競技用のいいキャンバスシューズがないので、オニツカのシューズを米国で売らせてほしい」
こう懇願した青年の名はフィリップ・ナイト。喜八郎は彼にシューズを提供し、米国でオニツカの販売権を任せた。喜八郎の教えた経営手法でナイトは順調に売り上げを伸ばしていったが、突然、彼はオニツカの靴作りの技術、販売方法を習得後に独立。さらに商標権をめぐってオニツカを訴えてきたのだ。当時一億数千万円という和解金まで支払わされた喜八郎は米国のビジネス界の冷酷さを嘆き、「高い授業料だった」と回想している。
このナイトこそが世界最大のスポーツ用品メーカー「ナイキ」を興した創業者、現会長である。
こんな裏切りぐらいでは決してへこたれる喜八郎ではない。後発メーカーとして挑み、切り開いてきた彼の靴作りの戦いは、大企業となった現在も途切れることなく、まだ続いているのだ。
昨年の箱根駅伝では約95パーセントの選手がナイキのシューズを履いていた。新技術の「厚底シューズ」を開発したナイキの独壇場が近年続いている。
だが、今年の箱根駅伝ではアシックスのシューズを履いて快走する選手たちの姿があった。王者・ナイキの独走に、チャレンジャーとして果敢に立ち向かう〝オニツカの魂〟を込めたシューズを履いて…。
アシックス技術陣の執念が、〝ナイキ一極集中〟の牙城に風穴を開けたのだ。
「机一つ」からのハングリー精神は未だ健在。喜八郎譲りの靴作りへの飽くなき〝世界と戦う魂〟は、今も受け継がれている。
=終わり。次は谷崎潤一郎。
(戸津井康之)