11月号
兵庫ゆかりの伝説浮世絵 第三十三回
中右 瑛
知られざる源平合戦古戦場・播磨三草山
平家一族の総大将・平清盛の死(1181)をきっかけに、源氏のすさまじい台頭に平家討伐の声が高まり、遂に平家一族郎党は都を離れ、西国を目指して落ちていった。
源氏と平家の過激な権力争いの源平合戦は壮大でドラマチックに山場を迎えた。世にいう「一の谷合戦」は「鵯越えの逆落とし」といわれる奇襲作戦で成功し、源義経がヒーローとして華々しく登場する。幼き公達・敦盛の首を討ち取った熊谷の対戦や、箙の故事の風流武者・梶原景時のエピソードなど、ドラマチックな展開が世に知られているが、その前哨戦というのが播磨三草山(兵庫県加東市)の合戦である。
ここでは、義経軍によって村の民家が焼き討ちに遭い、多くの住民たちが巻き添えをくらったのだ。この「三草山合戦」の悲劇はあまり語られていない。
歴史本『平家物語』の三草山合戦のくだりでは、源義経一行が平家討伐のため「都を発ちて丹波路にかかり・・・・・・」とあり、都落ちした平家一門の拠点・兵庫福原を中心にした西は一の谷、東は生田の森あたりまで布陣した平家軍に立ち向かうべく義経軍が丹波路を迂回して南下すると播磨三草山にさしかかった。源氏軍勢の前に大きく立ちはだかったのが平資盛(すけもり・清盛の孫)である。資盛は清盛の長男・重盛の次男。重盛は清盛の後継者で人徳すぐれたが42歳で清盛より早く(1179)死んだ。資盛は琵琶の名手であり、また和歌は『勅撰和歌集』に取り上げられたほど風流才子。そのうえ容姿端麗で「青海波」を舞う姿は「まるで光源氏の再来」とまで謳われたほどの美男の武将である。
平家の拠点であった兵庫福原の陣を守るためには、北の守備地・三草山への布陣は平家の総大将・宗盛(亡き重盛の弟)の命令で、最重要視されていた。資盛が前衛部隊として三草山に布陣し始めたのは永寿三年(1184)二月の初めのころだった。
『平家物語』には、源氏軍勢は一万騎と伝えているが、実際は千人程度で騎馬はさほど多くはなかったと思われる。源氏軍勢の中には土肥実平や畠山重忠、和田義盛、熊谷直実ら錚々たる名将たちがいる。
迎え討つ平家方は三千騎というがこれも定かでない。騎馬の軍勢はおそらく源氏軍勢よりもっと少なかったと推測される。
丹波路から三草山に入った義経軍勢は、二月四日夜半、村の民家はおろか朝光寺までを焼き払い、平家陣に夜襲攻撃をかけた。この急撃に資盛軍勢は狼狽し、民衆方にも被害が大きく、悲惨を極めたという。
二月四日には清盛公の忌日。福原の平家陣では一族挙げての法要の真っ最中の出来事。その日に三草山の資盛陣に夜襲攻撃を仕掛けられるとは予想もしていなかったのだ。
「卑怯なり義経!」
義経は「火つけ判官」という異名があるほどの奇襲の軍師である。資盛軍は不意をつかれ西方加古川方面に拡散し、義経軍は南の一の谷方面に向かった。この播磨三草山の戦いは義経に軍配があがった。世に「一の谷合戦」の序盤戦「三草山合戦」という。
■中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。