11月号
〝関西一の洋館〟 2つの邸の物語
芦屋翠ヶ丘に暮らす
緑あふれる自然豊かな環境を誇る翠ヶ丘には、かつて
今では想像すらできないスケールのお屋敷が2つ佇んでいた。
街のシンボル、阿保親王塚を見守るように、この地には2つの大きな屋敷があった。木村鐐之助邸と寺田甚吉邸だ。
木村鐐之助は神戸とゆかりが深いE・Hハンターが創設した大阪鐵工所(現在の日立造船の前身)で手腕を発揮した実業家。明治末期に広島の因島に近代的造船所を建設して工場長、やがて専務取締役になり、大正14年(1925)にはE・Hハンターの次男、範多範三郎ことハンス・ハンターより大分県の金山の権利を受け継いだ。
自身が勤める大阪鐵工所により大正末期頃建てられたと推定される木村鐐之助邸は、敷地内の少し小高い場所に鎮座していた。その正面は2階建ての腰折れ切妻屋根(きりづまやね)で本瓦葺き、鉄平石貼りの壁面には欄間付のアーチ窓が左右対称に並んでいた。内装は床の寄せ木、幅木、格天井組、建具、枠額縁、階段に至るまで豪勢にチーク材が使用されていた。チーク材は当時、外洋豪華客船の内装材として使用される高価なものであったが、なるほど、それが造船という事業に結びつく。
阿保親王塚の東隣、緑に抱かれたこの建物は戦後、福岡銀行芦屋倶楽部として使用されていた。ここを訪ねた女子行員がその後北野の異人館を見てがっくりしたというくらい重厚な洋館だったようだが、残念ながら阪神・淡路大震災で壊滅してしまった。
一方の寺田甚吉邸は木村鐐之助邸の北向かいにあった。
寺田甚吉は岸和田紡績(現在のユニチカ)、和泉銀行、南海電鉄、近鉄を率いた実業家で、山陽電鉄や川崎造船などの経営にも関わり、昭和17年(1942)には岸和田市長も務めた人物だ。
その邸には、なんとゴルフコースがあったという。芦屋の洋館に詳しい建築家の福嶋忠嗣氏の調査によると、農業用のため池を埋め立て、そのまわりの赤松混じりの雑木林を生かしてコースを仕立て、洋館をゲストハウスに使っていたとのことだ。また、雁行型(がんこうがた)の平屋の和館もあったそうだ。庭にはため池を生かして菖蒲(しょうぶ)床や水遊びのできる浅瀬、水鳥の小屋なども設け、船遊びも可能だったようで、池のほとりにはあずまやもあり、園遊地の風情だったらしい。
設計は近代建築史にその名を刻む渡辺節。優雅な様式建築を得意とした建築家で、村野藤吾の師としても知られる。大阪に拠点を置き、旧居留地の三井商船ビルディング、東灘の旧乾邸、三木の広野ゴルフクラブクラブハウス、大阪の綿業会館などを手がけた。寺田甚吉邸は昭和8年(1933)に別邸として建てられたようで、施工をおこなったのは倉敷の大原美術館など数多くの名作を築いた藤木工務店だ。洋館はRC造2階建てスパニッシュスタイルだったという。終戦直後は占領軍に接収されたが、VIP施設として使われたのであろうか、マッカーサー夫人も来邸したそうだ。GHQの幹部たちは「関西一の洋館」と讃えたと伝えられるが、外国人の眼にも素晴らしい邸宅と映ったのであろう。
寺田甚吉邸は戦後、某商社が取得したが、維持管理ができず、50年くらい前に取り壊され、現在敷地跡にはマンション群が建っている。しかし、嬉しいことにその内装の一部が大阪市内のとあるビルに保存・再現され、VIPルームとして活用されている。
洋館の内装材はオールチークで、光の角度によって黄金に輝くように見える艶の良さ。そこに大胆かつ繊細な紋様が刻まれているが、職人たちが硬いチーク材と格闘した鑿の痕跡がうかがえる。西洋のデザインを和の匠が再現した、歴史の証人だ。大理石のマントルピースの左右ではエンタシス様の柱が荘厳さを醸し、ランプや蝶番は質感のある真鍮。時代の雰囲気をそのまま伝えている。和館の方は障子の幅が広く、その縁は赤漆が丁寧に施されている。床の間に花頭窓があるのも面白い。茶室は外皮の残る木材を天井にあしらい、竹で縁取られた丸窓のデザインが粋だ。
オーナーの戸田和孝さんによると、戸田さんの祖父が寺田邸の美しさに惚れ込み、解体すると聞き懇願して内装材を譲り受け、保管していたという。それを戸田さんが時間をかけ、コツコツと作業をして20数年前に仕上げたという。「図面がなく、状況も違うので、現場でチョークを引きながらの施工でした」と戸田さん。チーク材は電動のこぎりでは切断できず、目の細かいのこぎりで少しずつ切断したとか。寺田邸から持ってきたテーブルはエレベータに乗らず、クレーンでつり上げて搬入。戸田さんの古き佳きを残し伝えようとする情熱と、それを実現する技術と努力は賞賛に値するだろう。
天井高や面積が異なるので、そのままの復元ではないが、その迫力たるや、往時へタイムスリップするには十分すぎる。自身も建築家である戸田さんは言う。「寺田甚吉邸は、渡辺節らしい和洋が融合した様式建築の粋」と。
なお、寺田甚吉は故郷、岸和田に、同じく渡辺節設計の自泉会館を建立した。ここは現存し、見学も可能だ。訪ねれば寺田甚吉邸の風情を追体験できるかもしれない。
翠ヶ丘に佇む2つの豪邸の記憶は、この街の住環境や住文化として今も根底を流れているに違いない。