9月号
阪神間モダニズムの真髄とは?
文化プロデューサー
河内 厚郎 さん
明治末期から大正、昭和初期にかけて、緑まばゆい六甲の山麓を舞台に、芸術文化が花開いた「阪神間モダニズム」。
その名付け親の河内厚郎さんに、モダニズムの意味や影響などについてうかがった。
温故「創」新の文化
その地域が一番輝いていた時代を核に据えることが、まちづくりの基本だと思うんです。モダニズムの時代、阪神間の住宅街は日本一になった、先頭を走ったのです。阪神間のイメージをつくった時代なんですよ。震災で街は変わっても、イメージは残り続けていますよね。ですから「モダニズム」と「阪神間」という言葉をくっつけて「阪神間モダニズム」というネーミングにしたのです。
ところで、モダニズムという言葉の起源はヨーロッパで、フランス語では「モデルニテ」という言葉があり、これは意外といろいろな意味合いがあるのですよ。そのひとつに「過去の歴史の栄光をもう一度新しいデザインの中で甦らせる」という意味合いがあるんです。フランスはそういうことを繰り返してきて、ルイ14世の時代はギリシャやローマに匹敵する時代を再現したという自負心があるんです。近代になったらルネッサンスやベルサイユ時代をまた新しいデザインにしていきました。
阪神間モダニズムをつくった人たちも、単なる舶来趣味ではないんです。端的に言えば和洋折衷ですが、阪神間ではデザインがうまくいきましたよね。日本的なデザインを無視していないんですよ。
例えば甲子園ホテルでは淡路島の瓦を使い、打出の小槌のデザインを使い、日本の松林に映えさせ、日本ではじめてホテルに和室を導入しました。宝塚歌劇では最初、百人一首から芸名を採っていたのですよ。『細雪』も〝昭和の源氏物語〟という触れ込みで売り出しましたし、谷崎潤一郎もそういう意識があったようです。あの当時私設美術館のはしりだった白鶴美術館も〝昭和の正倉院〟とよばれていたんです。
これらの例からも、日本の伝統文化を近代に甦らせるという意識があったことがわかります。モダニズムとは安直に新しいものという訳ではないのです。
3つの川とモダニズム
阪神間が住宅地として発展したのは、六甲の良質の水がある上に、水はけも良く、南面傾斜という好条件が揃っていたからではないでしょうか。また、お医者さんたちが「日本一の健康地」と喧伝した影響もあるでしょう。大阪が工業化して空気が汚れ、その反動もあり大阪の財閥が集団移住してきたのです。
夙川、芦屋川、住吉川という3つの川が流れていますが、それぞれの川沿いの街には個性があります。住吉川沿いは最も早く、明治30年代から郊外住宅開発がおこなわれ、日本一の金持ち村といわれました。朝日新聞の村山家と住友家が大阪から移ってきたのが大きいですね。山の手の方は野村家、武田家、大林家などですか。
芦屋川沿いは大正から一気に開けてきました。阪神沿線から開発が進み、阪急神戸線ができる頃には高級住宅街として知られるようになり、昭和初期に六麓荘ができます。昭和の初期に「芦屋夫人」という言葉が流行し、イメージが定着したのも大きいですね。昭和8年に日本で最初のファッション雑誌が芦屋で生まれていますが、それはその購買層がいたからで、マダム文化が展開されたからでしょうね。東京は基本的に男の街、関西では大阪で男が働き、阪神間は女こどもの街だったんです。
夙川は文学の題材に採り上げられることが多いですね。住吉川や芦屋川は意外と川筋が短くて風景が単調なんです。でも夙川は下流から上流へ行くと変化が大きく、いろいろな場所にいろいろな人がいたんですね。遠藤周作はカトリック夙川教会で洗礼を受け、井上靖も戦前に香櫨園に住んでいて、戦争中には大岡昇平も神戸の会社に勤め夙川を描きました。谷崎や小松左京も一時期いましたしね、みんな大物ですよ。物理学者の湯川秀樹も苦楽園にいました。戦後も山口誓子、黒岩重吾、そして村上春樹に小川洋子。かつては遊園地「香櫨園」があり、西宮七園のうち一番古いです。また、夙川は日本で初めての河川公園に指定され、昭和10年代に整備されています。
3つの川の流域はそれぞれ石が違うそうです。ですからその石を使って石垣をつくっているから、微妙に色が違うんですよ。
住文化の面では、住吉川はいかにも「豪邸」という家が多いですよね。思い切った建物が多かったですし。芦屋は和洋館など、わりと日本的なんですよ。中村梅玉という有名な歌舞伎役者も芦屋にいましたし。夙川はバラエティに富んでいます。豪邸もあれば、大きくないけれど瀟洒なアパートメントホテルもあったりしました。
消費生活という肥沃な土壌
阪神間モダニズムの文化は、今の私たちの生活に密接に関わっています。でもモダニズムは普遍化されてしまったので、逆に見えにくくなっているかもしれません。
もっと大きな視点から見ると、西宮に住んでいる劇作家の山崎正和さんという方が言い出した。「柔らかい個人主義」ですね。割とコミュニティは維持しながら、あまり村的な付き合いはしたくないという微妙な距離感、これが阪神間モダニズムの遺産だと思っているんです。村上春樹さんもそうだし、大森一樹さんとかも接していて距離の取り方が上手だと思います。
そして個人のライフスタイルの処し方が洗練されている点です、気取っていないけれど洗練されていますよね。人間の考え方、モラルというのは、昔から労働や生産の方からばかり論じられてきたんです。でもむしろ、消費生活の方に人間のナチュラルな姿があらわれるのです。誰もお金払ってやりたくないことをしませんから。そういう意味で消費生活が非常に早く進化し、といっても何も高級感だけでなく、生協が誕生したりとかタウン誌が早くできたりとかそういうレベルでも、消費者のライフスタイルの中から出てきた美学をもっているというのは日本でも珍しいのではないでしょうか。『細雪』も発刊当時は、日本がどうあるべきとか書いておらず、延々と生活を描いているだけだと批判されていたんですよ。でも今は名作と評されているのは、消費生活のスタイルが描かれているからではないでしょうか。ちょっとこじつけですが、村上春樹も出てきた時にそういうのを感じましたよね。彼は団塊の世代なのに声高にデモなんかしない。でも団塊の世代の気持ちをもっていると思うんですよ。
社会がどうあるべきかから入っていくと論争は盛り上がりますけれど、結局のところそれを繰り返すだけです。消費生活の方から入って美学を磨いていく。私はそれを「鹿鳴館モダニズム」に対して「六麓荘モダニズム」とよんでいるんです(笑)。鹿鳴館は西洋に侮られないように懸命に頑張ったんですよ。東京は首都ですから「公」の方から入っていったんですね。武家の都でしたし、男性的です。それに対し六麓荘は自分たちが快適な消費生活を送りたいと「私」の方から進んでいったのです。女性的な嗅覚ですよね。どちらが良いか悪いかではなく、この2つを足せば、日本のモダニズムの全容が見えてくるのではないでしょうか。