1月号
特集 司馬遼太郎と神戸|司馬先生から頂いた「神戸の財産」
司馬先生から頂いた「神戸の財産」
司馬遼太郎先生には、第2号から10回にわたり、「ここに神戸がある」というタイトルで、神戸各所を回っていただきました。
初代編集長をされました五十嵐恭子さん(故人)は、「原稿を頂きに伺うと、『今から書くから~』と言って、取材メモを見ながら1時間もかからない内に書き上げるというスピードには驚かされました」と生前にお話しされました。
当時、司馬先生は直木賞を受賞されたばかりで、他の出版社が連載などの依頼をしていなかったことも、弊誌の連載を引き受けてくださった理由の一つであったと伺いました。
「私は、大阪で生まれた。無智がまるで大阪の特権であるかのように、神戸を知らない」という書き出しからこの連載はスタートします。元町、トアロード、六甲山、南京町、有馬、須磨を訪ね歩くうちに、徐々に神戸のことが分かってくる、というような連載です。最終回では、「これが神戸だ、という個性を、神戸人は自慢し、大事にする必要がある。なぜならば神戸は日本の神戸というよりも、一面、世界の神戸であるからだ。神戸に期待するのは、そういう市民的なホコリをもっと強烈にもったほうがいい」と。
また、「一つの町を、これほど根気よく見たのははじめてであった。おそらくこれからもなさそうな経験だろう」とも記されました。
1995年、阪神・淡路大震災に見舞われた直後に、「世界のただ一つの神戸」というタイトルで、激励文を頂戴しました。弊誌では、この名文を号外として発刊し、多くの被災者の方々に読んでいただきました。何度読んでも、言霊のもつ力、凄みに魂が打ち震えます。
翌1996年、残念ながら司馬先生は72歳でお亡くなりになりました。お参りのために、東大阪市のお宅にお邪魔しますと、ご仏前は菜の花に囲まれたとても質素なもので、その清々しさは、司馬先生の作品に登場する多くの主人公のように感じたことをよく覚えております。
700号記念号、また震災から25年目という節目に、月刊神戸っ子の財産、神戸の財産でもある司馬先生の作品の一部を掲載させていただきました。
なお、再掲載にあたり、公益社団法人 司馬遼太郎記念財団様、安藤忠雄先生に心より感謝を申し上げます。
編集長 高橋直人