11月号
Hill of the Rising Sun|芦屋 朝日ヶ丘話譚
六甲南麓の阪急・JR・阪神の鉄道3線が神戸・大阪という大都市へと結ぶ利便性がありながら、豊かな緑と優雅な文化に包まれた芦屋。今や世界に誇る文化住宅都市としては日本で唯一、国から国際文化都市に指定されている。今回は、朝日ヶ丘についてふれてみたい。
芦屋の夜明けを告げる地
朝日ヶ丘はその名の通り、芦屋の歴史の黎明となる得がたい遺跡が発見された由緒ある地だ。
朝日ヶ丘遺跡はこの一帯では珍しい先土器時代後期~縄文時代前期の遺跡。昭和39年(1964)、後述する開発により道路工事で掘り返された粘土の中から高校生が土器の欠片を見つけたことが契機となって、2度の発掘調査がおこなわれた。ナイフ型石器、刃器、石鏃(矢じり)など、種類も量も豊富に石器が出土。その材質はサヌカイトやチャートなどこの地のものではない石だ。土器片は押型紋、爪形紋など瀬戸内地方との共通点も多い。住まいの柱穴とみられる痕跡も現れている。
遺跡のようすから、人々が自然の中で獣たちを追い、木の実や魚介をとる狩猟採集の暮らしが営まれていたと推定される。われわれの遙かなる祖先たちにとっても、六甲南麓のすがすがしいこの丘は住み心地が良かったのではないだろうか。また、出土品の特徴を分析すると、他地域との交流が盛んで、この地が瀬戸内と東日本の文化圏の境界にあることを感じさせるという。
やがて芦屋は近代に開発されるが、瀬戸内の玄関でもある神戸や大阪の文化を基底に、谷崎潤一郎に代表される関東大震災から逃れてきた文化人たちが東京文化のスパイスを振りかけて独自のモダニズム文化を醸したが、もしかしたらそれは太古の歴史の繰り返しなのかもしれない。
毛利の巨石と大阪城
朝日ヶ丘の上部にある市立芦屋病院は市民の健康を守る砦として奮闘しているが、その敷地の南西、松林の中に巨石が眠っていることをご存じだろうか。実はこの石、いや岩ともいうべきか、これは大阪城と深い関係がある。
大阪城といえば太閤秀吉の城というイメージが強い。ところが現在の大阪城の石垣には秀吉の威光などかけらもない。実は秀吉時代の基礎部分は土深く眠っている。大阪の陣の後、戦いに勝った徳川幕府がその権威を天下に見せつけるため、大阪城の大規模改修をおこなったが、我々を圧倒する威風堂々たる石垣はその際に築かれたものである。工事は主に西国の外様大名など64家の大名が江戸幕府の命を受けおこなった「天下普請」。これら諸藩の経済的負担は大きかったが、秀忠や家光に対しての忠誠心を試される仕事ゆえ、厳しい条件下で技法も工期も競い合うように実行された。
このとき、方々から巨石が集められた。有名な蛸石や肥後石など特に大きな岩石は小豆島や犬島など瀬戸内からやって来たが、六甲山麓からも多くの石が運ばれた。一説によれば石垣石はなんと100万個ほどあり、そのうち六甲山系の花崗岩は約30万個と、おびただしい数だったという。当時の芦屋は尼崎藩領であった。藩主は築城家としても実績のある戸田氏鉄。ゆえにその所領である現在の西宮市西部~神戸市灘区の六甲山南麓が採石の場となったのだ。
この際、朝日ヶ丘とその奥の山林は毛利秀就が藩主を務める西国の雄、長州藩(萩藩)の採石場となった。36万石の大藩とあって工期も長く、かなりの量の石がここから大阪城に運ばれたことが想像される。
石材には藩やサイズなどの情報を刻む刻印がなされていたが、「一」の下に「○」の刻印は毛利氏をあらわしていた。前述の市立芦屋病院の巨石にもその刻印があるというが、何らかの理由で運ばれず、今なお朝日ヶ丘に歴史の生き証人としてとどまっているのだろう。
ちなみに毛利氏は阿保親王の実子という説がある大江音人を祖と仰いでおり、長州藩は翠ヶ丘にある阿保親王塚の大改修をおこなっている。毛利は芦屋とゆかりが深い大名だ。
石にゆかりのある芦屋山手は、近代の宅地開発でも石垣や庭石の材料に事欠かず、花崗岩の石積みは高級住宅地、芦屋ならではの景観として大名ばりのステイタスを輝かせている。
朝日ヶ丘の巨石は江戸時代の夜明けに、大阪城のみならず、天下太平の江戸時代を支えた幕藩体制の基礎固めに一役買っていたのだ。
山手のサンクチュアリ
阪急・JR・阪神の「三本の矢」が神戸・大阪という大都市へと結ぶ利便性がありながら、豊かな緑と優雅な文化に包まれた芦屋は、今や世界に誇る住宅地として名を馳せ、法律により文化住宅都市としては日本で唯一、国から国際文化都市に指定されている。
そんな芦屋の中でも、山手地域は高級住宅街のイメージが色濃いが、その開発の歴史は昭和に入ってから。昭和2年(1927)、佐多愛彦博士が「阪神間第一の健康地」と評し松風山荘が拓かれ、その直後に六麓荘が造成された。その後も太平洋戦争までに芦屋山手地区、岩ヶ平地区、打出山手地区で区画整理がおこなわれた。
現在の朝日ヶ丘町域は文献と古い地図を頼りに推測すると南東部分の一部が昭和10年(1935)頃に区画整理されているようだが、それ以外の大半は戦後もしばらく山林田畑が残る狐狸の里山だったという。つまり六麓荘と松風山荘に挟まれた自然豊かなサンクチュアリとして、手つかずの緑が残っていたのだ。
ところが戦後、戦災復興から高度成長へと舵を切る昭和36年(1961)になると、サンクチュアリも開発されていく。まさに朝日のあたる南東向き斜面は芦屋市が事業主体となり新しい住宅地として生まれ変わって、朝日ヶ丘と名付けられた。庭をとってゆたりと家が建てられるような区画とされ、都市計画道路朝日ヶ丘線など幹線道路も整備。微調整を繰り返しつつ、山麓のグリーンベルトの一角を占める爽快な住宅地が誕生した。
この宅地開発に並行するように、朝日ヶ丘に文教の風をなびかせるプロジェクトも進行した。昭和32年(1957)に芦屋市より打診を受けた甲南学園は、手狭となった岡本の地から甲南高等学校・中学校の移転を検討、昭和38年(1963)に校舎が完成し、新しい学び舎に若人が集った。その後も体育館や会館、グラウンドなど施設も充実。バス路線も整備されたが、さすがは平生釟三郎の精神を継承する甲南健児たち、生徒の大半は坂道を健脚で登り、バス通学が予測より少なかったというエピソードが残っている。
貴志康一と長谷川三郎
甲南学園と芦屋といえば、二人の芸術家が思い浮かぶ。音楽家の貴志康一(1909~1937)と画家の長谷川三郎(1906~1957)。二人とも芦屋に住まい、甲南学園で学んだ。
貴志は甲南高等女学校の教頭でもあった父、二代目貴志弥右衛門と一緒に新開地の聚楽館で聴いた世界的バイオリニスト、ミッシャ・エルマンの演奏に衝撃を受け音楽の道を志した。当時はロシア革命により祖国を追われていた亡命ロシア人の音楽家が芦屋海岸の別荘や芦屋(深江)文化村を拠点としていたが、貴志もその一人、ミヒャエル・ウェクスラーと運命的に出会い、彼の薫陶を受ける。やがてヨーロッパへ留学、ジュネーブ音楽院を首席で卒業後、ベルリン高等音楽学校でカール・フレッシュに師事、ストラディヴァリウスを操った。やがて作曲や指揮に注力し、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団を指揮(日本人として2人目)。交響組曲「日本スケッチ」や交響曲「仏陀」などの名曲を生み出したが、28歳の若さで惜しまれつつ夭折した。
日本の抽象絵画のパイオニアと評される長谷川もまた実業家の家に生まれ、貴志の2つ先輩にあたる。高校時代は小出楢重に学び、東京帝国大学美学美術史科卒業後に渡欧、パリのモンパルナスにアトリエを構えた。折しもモディリアーニ、シャガール、パスキン、キスリング、藤田嗣治らが彩るエコール・ド・パリの時代、その自由な空気に包まれつつ、パブロ・ピカソやピエト・モンドリアンの抽象絵画に影響を受け作風を醸成する。帰国後は日本にモダンアートの新風をもたらす作品を創作。評論家としても活躍し、イサム・ノグチを日本に紹介したのも大きな実績として知られる。晩年はアメリカを拠点に、拓本や水墨など日本古来の技法を用いた作品を発表しつつ、教壇に立ち東洋の文化や精神をアメリカに広めた。
芦屋の洋館や住文化に詳しい建築家、福嶋忠嗣さんによると、貴志邸は現在の伊勢町、美術博物館の近く、長谷川邸は呉川町、芦屋中央公園野球場の向かいあたりで、ご近所さんだったという。当時このあたりは富裕層の別荘や郊外住宅地で、目の前は茅渟の海という絶好のロケーション。翠緑の丘を仰ぐ白砂青松の地に咲いた芦屋のモダニズム文化が、二人の感性の糧となったのかもしれない。
貴志の楽譜や長谷川の絵画は、甲南学園の学舎内にある記念室で大切に保管・展示されているが、我が国のクラシック音楽の先駆者、抽象芸術の草分けゆかりの品々が朝日のあたるこの丘に存在するのは偶然か、必然か。そしてまた、彼らを凌駕する才能が希望の丘、朝日ヶ丘から羽ばたいていくことだろう。
協力:芦屋洋館建築研究会代表 福嶋忠嗣氏