11月号
有馬温泉歴史人物帖 ~其の弐拾~ 頼 山陽(らい さんよう) 1781~1832
前回を少し引っ張りまして…江戸時代に松永久秀を主君殺し、将軍殺し、大仏焼討の「三悪」であると世に広めたのは誰なのか?公益通報に該当するか判断する前に事実無根で誹謗中傷性の高い文書を書いた〝犯人探し〟をしてみたところ、学者で文人の頼山陽であると判明したのでございます。
山陽の著書には久秀が織田信長に「三悪」を指摘されたとありますが、そのシーンに徳川家康が『日本外史』ではいるのに『日本政記』ではいない。これだけシチュエーションが違えばこの話は創作とみていいでしょう。特に『日本外史』は史上初の日本の通史とされ、幕末の志士の必読本で近現代にまで日本人の歴史観に影響を与えた訳です。だから山陽は「嘘八百含めて文章を作って流す行為」で、某知事の指示により停職3か月の懲戒処分になりかねませんよね。
そんな山陽は母の梅颸、叔父の杏坪らと有馬へ来ております。1827年5月9日は伊丹に滞在、翌10日夕刻に有馬に着き、山陽は11日の午後に、梅颸と杏坪は12日に出立しています。伊丹酒に目がない山陽は剣菱などの酒蔵の主と親しい間柄で、すでに伊丹で大量のアルコールで体が温まっていたのか、温泉での長居は無用だったのかも。
実は同年に、山陽と親しかった清の文人、江芸閣の揮毫による「日本第一神霊泉」碑が有馬の大坂口に建てられました。そう、いま金の湯の前にあるあの石碑です。そこには当連載其の伍でご案内の柘植龍洲の業績についても刻まれていますが、その四男の柘植葛城は山陽に詩文を学んでおり、もしかしたら山陽は芸閣を通じて石碑建立の件を知り、有馬来訪の際に葛城から聞いた龍洲の功績を刻むことを推し、発起人の慧定が山陽の意見に耳を傾けたのかも…勝手な妄想ですが。
ところで、葛城は医者でもあり、医術の師は山陽の妻、梨影の養父で、山陽のかかりつけ医でもある小石元瑞でした。山陽は1832年の6月に突然喀血=気道出血し、その後もたびたび喀血し衰弱、梨影の介護や元瑞の治療の甲斐なく9月に京都で亡くなります。余談ですが、史料に残るその病状をもとに「喀血の権威」でググるとトップに出てくる岸和田リハビリテーション病院の院長、石川秀雄先生に伺ったところ、山陽の喀血は結核由来の可能性が高いが断定はできず、気管支拡張症や特発性喀血症も否定できないとのことで、もし現代なら気管支動脈塞栓術による治療が有効ではないかというお話でした。また、有馬がいくら天下の名湯でも湯治での改善は見込めないとのことなので、みなさまも喀血したらすぐ受診しましょう。