5月号
新連載 Vol.1 六甲山の父|A.H.グルームの足跡
生い立ち
幕末から維新を経て大正あたりにかけてのわが国は、西洋化、近代化、産業革命がいっぺんに押し寄せて人類史上稀にみる大変貌を遂げた。神戸はその早潮の中で湧き起こる渦のひとつとなり、苫屋の煙立つ寒村から国際港湾都市へと変貌を遂げた。
その変化の原動力のひとつになったのは海の向こうからやって来た外国人たちだが、中でも居留地を盛り上げ、六甲に新たな生命を与え、日本にゴルフ文化の種を蒔いたアーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom)の存在はすこぶる大きい。
グルームは自伝を残しておらず記録も多くないために資料は限られ、その内容にも不確かな部分がある。それらのうち事実だと思われる情報をもとに、これからしばらくグルーム伝を綴っていこう。
グルームは1846年9月22日にイギリスで誕生した。アール・ヌーヴォーを彩ったガラス工芸家のエミール・ガレや、江戸幕府第14代将軍徳川家茂と同い年にあたる。この年、イギリスでは穀物法を廃止し自由貿易体制へと大きく歩みを進めた一方、日本ではアメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが来航するも浦賀奉行が退去を勧告するなど堅く港を閉ざしていた。
彼が生まれたのはロンドンの中心街の北西、ハイドパークとリージェントパークに挟まれたメアリルボーン(Marylbone)地区。現在は高級住宅地で、シャーロック・ホームズ博物館などにグルームが育った19世紀の残り香が漂っているようだ。出生証明書によると、出生地はアッパー・シーモア・ストリート(Upper Seymour Street)の15番となっている。グーグルマップでシーモア・ストリートを検索するとハイドパークの北東角で、ホテルやレストランなどが建ち並ぶ洒落た街のようだ。
グルームの父、アーサー・フィリップ・グルームは1811年生まれ。その5歳年下の母、エマ・マーガレット・グルームは旧姓をヘスケスといい、それをグルームのミドルネームとしている。厳格な父は事務弁護士で、フリーメーソン関係の集会所に出入りしていたことからも裕福な家庭だったと推察される。母が教師であっただけでなく、ファミリーに英国王室で文学講義をおこなった人物(グルームの父という資料と兄という資料がある)もいたそうで、そのことを鑑みると知的レベルも文化度も高い家庭だったことが想像できる。絵画や音楽などにも親しみつつ、教養や感性を磨ける環境で育ったことは、家族写真からもうかがえる。
地元の学校を卒業したグルーム少年は1861年8月、ロンドンから西へ約100キロのウィルトシャー(Wiltshire)にあるマールボロ・カレッジ(Marlborough College)へ進学。アーツ・アンド・クラフツ運動を主導したウイリアム・モリスや、英王室のプリンセス、キャサリン妃の出身校として知られる名門で、1843年の開校ゆえ当時は新進気鋭の学校だったことだろう。グルームはこの緑に包まれた田園地帯の学び舎に身を置いて、授業や課外活動、寄宿生活を通じ多くのことを学ぶ。もともと海外伝道を志す聖職者の子弟の育成に力を入れており、社会貢献を是としスポーツが盛んな校風は、来日後の彼の活動にも滲み出ていく。