9月号
有馬温泉歴史人物帖 〜其の六〜 手塚治虫
1928~1989年
昭和11年、現在の宝塚市御殿山で有馬温泉の芸者、絹子の絞殺体が発見されました。神戸在住のドイツ人でナチス党員のヴォルフガング・カウフマンの犯行が疑われましたが外交官ゆえ逮捕されず、そしてその裏にはナチス総統、アドルフ・ヒトラーの出自に関する極秘文書があったとか。
そんな怖いことがあったんだー、と思われた方、ごめんなさい。これ、手塚治虫晩年の名作、ヒトラーほか3人のアドルフの奇縁を描いた『アドルフに告ぐ』の中のお話でして。
この作品には有馬温泉が出てきます。第1章では前述の殺人事件。ちなみに、昭和8年時点で芸妓は30名ほどだったそうです。第6章には昭和13年にヴォルフガングの息子、アドルフ・カウフマンがナチスの学校への入学を嫌がって家出、神戸から六甲を越え有馬にたどり着く場面があります。第20章では昭和16年に神戸在住のユダヤ系ドイツ人、アドルフ・カミルが芸者殺しの真相を探るため有馬を訪ねます。これらのシーンには戦前の絵はがきに似た構図あり、温泉寺の石段ありと、有馬が精緻に描かれているんです。
一方で、名前が「閣」で終わる宿や、平成時代に廃業した萱之坊が画中に出てきますが、これらは作品が制作された昭和50年代にはあったものの、戦前の旅館リストには載っていません。治虫が有馬へ来たという文献はちょっと見当たりませんが、このように物語の時代設定と合わない制作当時のリアルが絵に滲み出ているので、取材で来訪しているかもしれませんね。
と言うか、治虫は宝塚育ちなので、その頃に1度や2度有馬を訪ねていても不思議じゃない訳で。宝塚、当時の小浜村に越してきたのは5歳の時。移り住んだのは法学者で関西大学の設立にも関わった祖父、手塚太郎が晩年を過ごした邸宅でして、有馬街道の近くにありました。
太郎の父、つまり治虫のひいおじいちゃんの手塚良仙は医者で、緒方洪庵の359番目の弟子でした。治虫の旧制中学時代の先輩で虫取り仲間の緒方正美が、洪庵のやしゃごというのも奇遇です。実は治虫も医師免許を持っていて、「医師が本業、漫画家は副業」とも発言しています。それはジョークとしても、あの『ブラックジャック』はドクターならではなんですね。
で、洪庵は有馬に滞在したことがあり、妻の八重は有馬に近い名塩の出身で、次男で軍医の惟準は有馬に別荘を構え、現在も天神泉源の玉垣にその名を見つけることができるんですよ。そして洪庵の師匠は宇田川玄真で、その養子の宇田川榕庵は1829年、有馬温泉におけるはじめての科学的な泉質分析をおこないました。その背景には、前回ご紹介した柘植龍洲の「大切なのは温泉の成分」という論理がうかがえます。