1月号
有馬温泉史略 第十三席|耐え難きを耐えつつ掘って 湯も街もわき立った! 昭和戦中~戦後
耐え難きを耐えつつ掘って 湯も街もわき立った! 昭和戦中~戦後
今回は前々回ザッと流してしまった戦時中のお話からはじめましょう。
さて、華やかなりし有馬のモダニズムの栄華は一閃で、すぐさま戦争の影に呑まれます。男子は戦地や工場へ、残るは女、子どもと老人ばかりで、ことあるごとに防空訓練。1942年から終戦まで尼崎の小学生が集団疎開。有馬小学校では校庭でかぼちゃやいもを栽培し、挺身作業で供出用の薪やどんぐりやヨモギを採ったり草履を編んだり。
旅館の施設は海軍の保養所として提供を余儀なくされ、お寺の梵鐘は供出、焼夷弾こそ降らなかったものの空襲警報はしばしばで、心安まる時間もなかったことでしょう。
1942年には三田と有馬温泉を結んでいた国鉄有馬線が不要不急路線として休止、そのレールは鉱石輸送のための国鉄篠山線の敷設に転用されました。ちなみに、その篠山線が廃線になって久しいいまでも、有馬線の生き証人たるレールは篠山の福住あたりでもろもろ再活用されております。
1944年には軍需用として関西ペイントに町有林の松ヤニの提供を契約、中の坊には戦時産院が開設されます。その翌年、終戦前には土井船艇兵器が公会堂を購入し有馬小学校の校舎を借りて軍需生産の場とします。
ただでさえこんな悲しき状況なのに、1943年の年明けには大火災まで起きてしまいます。旅館など全戸数の約1割が巻き込まれ、罹災者は200名とも300名とも。死傷者がなかったのが不幸中の幸いでしたね。
でもね、こんな散々な目に遭いながらも、有馬の人たちは未来をしっかり見据えていたんですよ。前々回申し上げた通り、内湯のニーズが高まって温泉の枯渇が懸念されていた訳ですが、1941年に地元主体で温泉掘削会社を立ち上げ、翌年には早くも有明泉源から高温の金泉が。戦後も温泉街のあちこちをボーリング、宿も敷地内を掘り掘り、金泉だけにお湯のゴールドラッシュの様相を呈してきまして、その結果昭和20年代に天神・御所・極楽・妬のほか銀泉の泉源も掘り当て、自家泉源が涌いた旅館もあり、湧出量が増え宿では内湯が当たり前になっていきます。
戦後はまさに有馬の飛躍の時期。1947年には合併で神戸市の一部となりますが、この時の神戸市長は前回登場した九鬼隆義の重臣、小寺泰次郎の息子の小寺謙吉というのも不思議なご縁だこと。1949年には有馬温泉観光協会が創立し、翌年には太閤秀吉を偲ぶ有馬大茶会がスタート、有馬検番もでき、有馬ます池もオープン。看板や街灯も整備され、その後瑞宝寺公園も開園します。
昭和30年代になると大衆のレジャー地として賑わうように。1957年には温泉街の周囲が瀬戸内海国立公園に編入され、鼓ヶ滝や瑞宝寺公園がここに含まれるように。全国的なヘルスセンターブームに乗って、1962年には有馬ヘルスセンターがオープン、日帰りニーズを掴みます。パチンコ屋やヌード劇場もできたそうですが、品格ある有馬には似合わなかったのか、神戸電鉄で新開地に出れば事足りたのか、ほどなく廃業したようです。
1964年の新幹線と名神高速、1970年の大阪万博を見据えて、昭和30年代からは大型の宿泊施設が続々と。1961年に芦有道路、1967年に六甲トンネル、1974年には中国道など交通も便利に。1970年には六甲有馬ロープウェーも開通します。
昭和40年代後半から50年代は高度成長の風を帆に受けて、旅行会社のパック旅行でも人気になり、団体客満載のバスが続々、ゴージャス保養所も増え会員制リゾートもできて大賑わい。その後バブルでますます派手派手、宿の大広間では連日の大宴会でございました。
一の湯・二の湯の時代から100年ちょい、校庭のいもを喰っていた時代から40年ほどで大変貌を遂げた昭和末期の有馬。1982年にゆけむり広場ができた際、大阪からここまで秀吉像を輿に乗せて運んだそうですが、太閤様は「ワシの知っている有馬やない!」と目を丸くしたでしょうな。