2月号
連載エッセイ/喫茶店の書斎から (33) 海尻巌Ⅲ
今村 欣史
書 ・ 六車明峰
先に、海尻巌は竹中郁の唯一のお弟子さんだったと書いた。そのことで満さんから興味深い話を聞いた。
「仕事で宝塚に出張したことがあったのですが、その時、巌さんの家に一ヵ月ほど宿泊させてもらいました。
ある朝、巌さんが大騒ぎしておられました。朝刊を摑んで、『偉い人が亡くなった』と。その記事をわたしにも見せるんですが、わたしには何のことか分からなくて。それは大変なあわてぶりでした」
その話を聞いてわたしは、それは多分、竹中郁のことだろうと思った。
「まだ寒さが残るころだったと思います。1980年代の」
もう間違いない。郁さんだ。1982年3月7日が竹中郁の命日。
『木』15号(1982年7月)という美術誌に海尻が竹中郁の追悼文を書いている。
「竹中先生と私」と題したその書き出し。
《先生は「伝言板」の詩のとおり去る三月七日未明、帰らぬ旅へ出発されてしまった。》
やはり海尻にとって竹中郁は“先生”なのだ。ただ、この文中にはこうある。《先生はいわゆる門弟と称するものは一人としてお持ちにならなかった。だから私も門弟の一人であるなどと思い上がってはいけないと自戒した。》と。
因みに『木』だが、生前は竹中郁が編集をしていた梅田画廊発行の美術誌である。竹中亡き後、足立巻一先生が後任となっている。
この15号だが、「追悼号」とは記されていない。しかし内容はすべて竹中を偲ぶものであり、足立先生と竹中郁の親友小磯良平との対談記事、そして海尻の追悼文のみである。ちょっと不思議に思うのは、海尻のほかにも書きたい人はあったと思うのだ。でも足立先生は海尻の文だけを載せた。さすがに人情家の足立先生だ。よく人を見ておられると思った次第。
その追悼文の後半。
《私は先生を知ることにより“詩”にかかわることによって、先生を始めとして良き先輩友人に恵まれる事ができ、“美しいもの”と会うこともできた。ようやく晩年期を迎えて、今更ながら先生の恩寵を思わずにはいられない。私はそのことをひとりひそかに誇りに思うとともに、のこる生涯を先生のおこころを心として自戒して生きてゆかねばならぬ。》
海尻の竹中郁への純粋な傾倒ぶりがよくわかる。
満さんにお話を伺ったあと、薬王寺の満さんの家に案内してもらった。そこが海尻の生家でもある。
山深いところだった。いかにも耕地面積は狭い。しかし家は大きな瓦屋根の立派なものになっていた。前の道を挟んだ向かいの畑で二人の男女が畑仕事をしておられた。満さんが紹介してくださったが、いずれも海尻と血縁の人。無駄口を聞かず、いかにもじっくりと仕事に向き合う但馬の人だ。
前にも後ろにも山。なんにもないところだけど、海尻はここがことのほか好きだったという。それは彼の二冊の詩集を読めばよくわかる。今回わたしはこの地を踏ん で、海尻の詩集が改めてよく理解できた。ああ、あの詩はこの場所のことを書いているのだな、そしてその時の心境は、などと心巡らすことができたのである。
しみじみと景色を眺めながら辺りの写真を撮っていると、満さんが、
「この道を奥へ行ったら、小さな峠があります。それを超えたら、雲原ですよ」と教えて下さった。
砕花翁のあのうた、〈大江山雲原越えに遠く来て新そばぎりの香にむせびけり〉の“雲原”である。そしてまた、宮崎翁の問わず語りに出てきた峠、巌が13歳で奉公に出た時、お母さんが見送ってくれて、いつまでも手を振っていたという峠である。峠の名は「神懸峠」。もちろん行ってみました。
すれ違う車は一台もない。一人の人とも出会わない。山賊が出て来てもおかしくない檜木立の峠である。峠を越えて少し下ると視界が開き、雲原の集落がチラッと見える。そこはすでに京都府丹後である。13歳の巌は、最愛の母に見送られながら、ここから一人で見知らぬ町へと歩を進め丁稚奉公に出て行ったのだ。
村を出て二十幾年
ときならぬ雪の舞うのをみるにつけ
ふる里のこどもの日のことを思いだす
今年は雪が多い
江笠の山はまだ真白だろう
根芹つんだ小川も埋もれたままだろう
ぶさたに過ぎているけれど
忘れた日があるわけでない
ただ“春”を待つそれだけだ
(「雪の日に」後半 『海尻巌詩集』)
■六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会計。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
■今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)ほか。