7月号
先人たちが夢見た地 東山町・東芦屋の洋館とその背景
幻の温泉「芦屋温泉」
芦屋の山手は六甲山系の南東端で、その出っ張ったところの山上にあるのが芦屋の守り神、芦屋神社なんですよ。ふつう鎮守は里の中にありますが、芦屋神社はちょっと違って山の上にあるんですね。その山麓、平地になる部分が東芦屋の集落なんです。
このあたりは明治以前、莵原郡芦屋郷とよばれていた地帯で、明治の中頃に武庫郡精道村になります。東芦屋はその一角の山里に過ぎないところだったんです。
明治初期になると省線(後の国鉄、現在のJR)が近くを東西に横切りますが、当時、西宮には駅がありましたが、芦屋にはありませんでした。明治の後期に苦楽園で温泉が発見され、やがて全国から省線の西宮駅を経てたくさんの湯治客がやって来るようになりますが、実はその頃、芦屋にも同じように温泉が湧出したのです。東芦屋から芦屋神社への参道の近くに泉源が発見されたのですよ。芦屋温泉とよばれ、泉質は有馬の湯と同じような泉質で、木造平屋建ての料理旅館が営業していたようです。明治40年頃には浴場があり、その北側の桟敷では海の眺望を楽しみながらお弁当を食べることができたと伝えられています。苦楽園のように大規模な開発ではありませんでしたが、このことは芦屋が農村から健康地・保養地へと変貌する要因のひとつになったのではないでしょうか。
郊外住宅地への変貌
一方で明治38年(1905)に阪神電車が開業し、芦屋に駅ができます。その影響もあり、大正期になると東芦屋周辺は別荘地化、邸宅地化していくのです。当時は例えば阪急宝塚線沿線のように電鉄会社や土地会社が宅地を開発していくケースが多々ありましたが、ここはちょっと様相が違い、富豪たちが自分たちで田畑や山林を購入し別宅にしていったのです。農業のみならず、水車による産業化に力を入れていた東芦屋の集落は進取の気風があったのか、このような近代的な別荘や別宅を受け入れていきました。
温泉地があり、豊かな自然に包まれた東芦屋周辺は、郊外生活にとって理想とも言える土地だったようです。温泉地として人を集め、やがてそこに人が住んでいくという感じだったのでしょう。当時の大阪は東洋のマンチェスターとよばれ、大気汚染などの公害が起きていました。そこで、摂津のフロンティアであった阪神間が保養地や移住地として注目され、「郊外生活のすすめ」などの冊子が発行され、大阪医科大学学長だった佐多愛彦博士ら医師も郊外への移住を奨励します。実際に佐多博士は東芦屋の山上に土地を購入し、そこから松風山荘の郊外住宅地が開発されていきました。
ところが芦屋温泉は大正初期に枯渇してしまいます。その温泉跡と、その上の里山約2千坪を全部買い取ったのが竹内才次郎(1851~1938)という人物です。
竹内才次郎邸と藤谷荘園
竹内才次郎は薩摩の出身で、大阪土佐堀で大島紬を扱い財を成した実業家でした。竹内才次郎邸は貴族院議員だった娘婿のために建てられた洋館です。英国風の無骨な感じのデザインで、阪急の車窓からひときわ目を惹く建物でした。
竹内才次郎は洋館だけでなく、山側の敷地に和館を十数軒建てて、同郷の薩摩出身者を住まわせたのですね。ここにコミュニティを築こうとしていたのでしょう。この一角は「藤谷荘園(ふじがたにそうえん)」とよばれ、その南西角の入口に竹内氏が揮毫した銘板が掲げられていました。ここは桜の名所として知られ、近隣の人々を花見に招いたそうです。
竹内邸をはじめとする別荘や郊外住宅ができて、それに引っ張られる形で別荘や邸宅として洋館が建つようになっていきます。また、大正期に省線の芦屋駅や阪急芦屋川駅が開業したことも、その大きな要因になり、東芦屋の集落から山手へ東へ、東山町あたりへと開発がシフトしていきます。竹内才次郎邸のほかにも小野邸、西川邸、中浪邸、夏川邸、島津邸などの洋館が加速度的に建ち並んでいったのです。残念ながらいずれも今はもう現存しません。小野邸や西川邸はスパニッシュミッションスタイルの洒脱な洋館でした。
これらを文化的に支えたのが、阪急線を挟んで南側の田中千代服装学園であり、芦屋山手教会であり、芦屋甲陽幼稚園だったのです。芦屋甲陽幼稚園は尖塔付のチャペルがあります。邸宅街の子女たちがここで学んでいたのですが、それが東芦屋や東山町のもつポテンシャルを象徴していると思います。
東芦屋から東山町にかけてのエリアは、夢を芦屋に求めた人たちが愛した地なのです。
参考資料/福嶋忠嗣・著『芦屋の和洋館よ とわに』
福嶋 忠嗣 さん
福嶋忠嗣建築設計室 所長
芦屋洋館建築研究会 代表
兵庫県ヘリテージマネージャー